鍋島斉直
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鍋島 斉直(なべしま なりなお、安永9年9月23日(1780年10月20日) - 天保10年1月28日(1839年3月13日))は、肥前国佐賀藩の第9代藩主。第8代藩主・鍋島治茂の長男。母は福岡氏。正室は池田治道の娘。子に直永、直正、娘(伊達宗城室)、娘(久世通熙室)、娘(鍋島茂勲室)、娘(松平斉斎室)、娘(阿部正寧室)。官位は従四位下、肥前守、侍従。
父・治茂の後を受けて藩主に就任する。この頃、佐賀藩では1万5000貫の借金があり、財政が破綻寸前となっていた。このため、斉直は財政再建の藩政改革に取りかかることとなった。
斉直が打ち出した改革は行政組織の簡素化、つまり不必要な機関の撤廃による経費節減政策であった。まず、支藩である肥前鹿島藩の廃藩、次に長崎警備の任務の返上であった。特に長崎警備には莫大な費用がかかり、代々の藩主を苦しめていたため、斉直は年寄役の有田権之允に密命を与えて、長崎警備の任務を幕府に内密で熊本藩に引き継いでもらおうと画策したのである。
ところが、この密約が幕府に露見して有田は切腹。鹿島藩廃藩も他の支藩である蓮池藩や小城藩の抵抗にあって失敗。悪いときに悪いことは続くもので、文化5年(1808年)8月、フランス革命後のオランダの混乱に乗じてイギリス船フェートン号が長崎を襲い、オランダ商館員を拉致し長崎奉行・松平康英を脅迫するフェートン号事件が発生。佐賀藩が長崎警備の兵員を勝手に大きく減らしていたために日本側はフェートン号の狼藉になすすべがなく、幕府は佐賀藩の責任を追及し、11月に斉直に100日の閉門を命じた。歌舞音曲の禁じられた佐賀城下は正月にもかかわらず静まり返った。文政2年(1819年)には江戸藩邸が焼失。文政11年(1828年)には台風(シーボルト台風)の襲来で死者1万人の大被害を被って、財政はさらに悪化しついに借金は13万両に上った。
このため天保元年(1830年)、家督を子の鍋島直正に譲って隠居した。しかし隠居後も実権を握り、贅沢な私生活を送ったと言われている。
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