三船山合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
三船山合戦(みふねやまかっせん)とは、戦国時代の永禄10年8月23日(1567年9月25日)に上総国君津郡三船台(現在の千葉県君津市上湯江・富津市前久保)において、里見義弘と北条氏政の間で戦われた合戦のこと。
第2次国府台合戦において里見氏は北条氏によって大敗を喫した。このため、北条氏は里見義弘の上総北部・西部の里見領を悉く占領し、東部においては里見氏の重臣であった正木時忠・土岐為頼の帰順に成功させた。更に里見義弘の居城である佐貫城を奪うべく、三船山(現在の呼称は三舟山、君津・富津市境)山麓の三船台に砦を築いた。里見義弘は三船台の砦が出来た場合、南に1里しか離れていない佐貫城が危機に晒されると考えて三船台に駐屯する北条軍を攻撃した。
これを知った北条氏政は太田氏資らとともに江戸湾を渡海して佐貫城攻撃に向かい、一方弟の北条氏照は原胤貞とともに別働隊を率いて市原郡方面から小櫃川沿いを遡って、義弘の父・里見義堯の居城である久留里城の攻撃に向かわせた。
これに対して義弘は正木憲時とともに佐貫城を出撃して、三船台に集結した氏政の軍を攻撃した。戦いは激闘となり、里見軍が北条軍を破った。この時、殿を務めた太田氏資が戦死した。また、北条・里見の両水軍の間でも激しい戦いが行われた。勢いに乗じた里見軍が北条軍を追撃する姿勢を見せたために、水陸から挟撃されることを恐れた北条軍は全軍を相模国に撤退させた。
以後、里見義弘は動揺する北条方に奔った国人達の切り崩しに成功させた。また、先に北条側に奔ったものの、同じ北条方である筈の原胤貞との勢力争いを依然として続けていた正木時忠も北条側に付く積極的な意義を見失っており、この戦いを機に里見側に帰参した(時期については明確な記録は無いがこの合戦から程なくと推定されている)。また、この敗戦は家督相続以来、領土拡大に成功し続けてきた北条氏康にとっては唯一の勢力圏縮小を招いた敗戦であり、武田信玄の駿河侵攻とともに越相同盟(上杉謙信との同盟)を決意させる一因になったといわれている。
[編集] 参考文献
- 『千葉大百科事典』(千葉日報社、1982年)
- 川名登 編『すべてわかる戦国大名里見氏の歴史』(国書刊行会、2000年) ISBN 4336042314
- 千野原靖方『新編房総戦国史』(崙書房出版、2000年) ISBN 4845510707
- 千葉城郭研究会 編『城郭と中世の東国』(高志書院、2005年)ISBN 4862150063
カテゴリ: 日本の戦国時代の戦い | 千葉県の歴史 | 富津市