上宮聖徳法王帝説
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上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)は、推古天皇の摂政の聖徳太子の伝記で現存する最古のものである。作者は不祥であるが、仏教的事績を主として記録している。一巻・家永三郎の分類によれば五部構成となっている。
[編集] 概説
原典は江戸時代末期まで法隆寺秘蔵物で天下の"孤本"といわれ、現在京都の知恩院に所蔵されている国宝である。成立年代も不明であまり世のなかに広まった様子はない。写本の所有者だったと思える高僧(相慶・法隆寺五師の一人12世紀後半の人物)の名が末尾に記されている事から成立年代が12世紀以前である事が確実ではある。近代史学の発展に伴い官製の古事記や日本書紀などの文献批判が行われ、記紀以前の古い史料が基礎になっていると思料される本書が信用度の高い古典として脚光を浴びてきた。
[編集] 構成
- 第一部---聖徳太子の系図を文章で表現している。特に妻や女子の名も記しているところが後の父子のみの系図と異なる。
- 第二部---聖徳太子の事績。仏教的事績のほかに冠位十二階について詳述。
- 第三部---法隆寺の御物の銘文を収めている。特に天寿国曼荼羅繻帳の銘文は現物が断片的にしか残存してないのでその記録は貴重である。
- 第四部---断片的な歴史の記録が箇条書き的に記録されており、十七条憲法や蘇我入鹿事件の年代あるいは、仏教伝来等が記されている。
- 第五部---欽明天皇から推古天皇の治世年数とそれぞれの崩御年そして陵の所在地を書いている。ここでは、欽明天皇の治世年数から逆算した即位年が日本書紀の記述と相違し、学者の論争の的となっている。
- ※逆算による欽明天皇の即位年は531年で日本書紀では継体天皇二十五年にあたる、安閑・宣化両天皇のあとの539年に即位したとする書紀とはつじつまが合わない。南北朝のように安閑・宣化朝と欽明朝が並立し内乱状態にあったという説や、単に暦法上の問題とする説など論争を生んでいる。
[編集] 出典
- 家永三郎著「日本思想体系・二巻『聖徳太子集』」岩波書店刊