中川浄益
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中川浄益(なかがわじょうえき)は千家十職の一つ、金物師(かなものし)の中川家当主が代々襲名する名称。元々は越後国で甲冑・鎧を作っていたが、茶道具を初めて手掛けた初代・中川與十郎が紹益を名乗り、二代目浄益以降の当主は浄益という名を継いでいる。
2007年現在は十一代浄益が当主。十代の長男として生まれ、京都市立第二工業高校(現在の京都市立伏見工業高等学校)金属工芸科卒業。父の死後、1940年に十一代清右衛門を襲名した。
中川家は錺師(かざりし)とも言われ、金工の精巧な茶道具を得意とし、優れた金工の技術を継承してきた。その作品は鉄を鍛造して制作する槌物(うちもの)と鋳造による鋳物(いもの)が主である。
[編集] 中川家歴代
- 初代:紹益(紹高、1559年 - 1622年)
- 二代:浄益(重高、1593年 - 1670年)
- 三代:浄益(重房・長十郎のち太兵衛、1646年 - 1718年)
- 四代:浄益(重忠のち友寿・源吉、1658年 - 1761年)
- 3人の息子に恵まれ、息子達と共に家業の隆盛に励む。
- 五代:浄益(頼重・源吉、吉右衛門、1724年 - 1791年)
- 四代の三男。この代から代々「吉右衛門」を名乗りとする。表千家八代・ソツ[1]啄斎に重用される。晩年に天明の大火に遭い、過去帳1冊以外のすべての家伝・家財を消失。
- 六代:浄益(頼方、1766年 - 1833年)
- 五代の息子。ソツ啄斎の機嫌を損ね、一時表千家出入りを禁じられ、その後は裏千家のみの御用を務める(詳しい理由は不明)。了々斎の代になって許される。歴代中随一の茶人であり、「宗清」の茶名を持っていた。
- 七代:浄益(頼実、1796年 - 1859年)
- 「砂張打物の名人」「いがみ浄益」といわれ、天明の大火以後様々な事情でふるわなかった中川家の中興の人物といわれる。妻は飛来一閑三女・九満。
- 八代:浄益(幾三郎、1830年 - 1877年)
- 九代:浄益(益之助・紹芳、1849年 - 1911年)
- 十代:浄益(淳三郎・紹心、1880年 - 1940年)
- 十一代(当代):浄益(紹真、1920年 -)
[編集] 参考文献
- 『現代の千家十職』淡交社 ISBN 4473009726
- 『千家十職 茶の美の創造』(淡交別冊愛蔵版 №21)
[編集] 脚注
- ^ 「口」偏に「卒」。
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