金刀比羅宮
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金刀比羅宮 | |
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所在地 | 香川県仲多度郡琴平町892番地1 |
主祭神 | 大物主命 (相殿)崇徳天皇 |
社格等 | 国幣中社・別表神社 |
例祭 | 10月10日 |
金刀比羅宮(ことひらぐう)は、香川県仲多度郡琴平町の象頭山中腹に鎮座する神社。こんぴらさんと呼ばれて親しまれており、金毘羅宮、まれに琴平宮とも書かれ、明治より前は金毘羅大権現と呼ばれた。全国の金毘羅神社(金刀比羅神社・琴平神社)の総本社である。
長く続く参道の石段が有名で、奥社まで登ると1368段にもなる。海の守り神として信仰されており、境内の絵馬殿には航海の安全を祈願した多くの絵馬が見られる。金毘羅講に代表されるように古くから参拝者を広く集め、参道には当時を偲ばせる燈篭などが今も多く残る。
目次 |
[編集] 祭神
[編集] 祭事
[編集] 歴史
金刀比羅宮の由緒については二つの説がある。一つは、大物主命が象頭山に行宮を営んだ跡を祭った琴平神社から始まり、中世以降、本地垂迹説により仏教の金毘羅と習合して金毘羅大権現と称したとするものである。もう一つは、もともと象頭山にあった松尾寺に金毘羅が守護神として祀られており、これが金毘羅大権現になったとする。いずれにせよ神仏習合の寺社であった。海の守り神とされるのは、古代には象頭山の麓まで入江が入り込んでいたことに関係があるとされる。
永万元年(1165年)には讃岐に流され死去した崇徳上皇を合祀した。
戦国時代には荒廃していたが、別当となった宥盛が信仰を広め境内を整備した。宥盛は死の直前には神体を守るために天狗に身を変えたとの伝説もあり、死後は本堂付近に祭られる。
江戸時代初期には、別当の宥光が参拝の土産物として○に金の印を入れたうちわを作ることを思いつき、大和国より技術者を招いたといわれ、この頃には信仰が次第に広がりを見せていたと推察される。
江戸時代中期に入ると全国の庶民の間へと信仰は広がり、各地で金毘羅講が組織され、金毘羅参りが盛んに行われる様になる。この頃、金毘羅参りは伊勢神宮へのお陰参りに次ぐ庶民の憧れだったといわれ、その様子は、浮世絵の東海道五十三次の一つである「沼津」に描かれた金毘羅参りの後姿や、小説の東海道中膝栗毛に書かれた主人公の弥次さんと金毘羅参りの格好をした男との饅頭の食べ比べの話などからも、伺うことが出来る。
江戸時代末期には「こんぴら船々 追風に帆かけて シュラシュシュシュ まわれば 四国は 讃州那珂の郡 象頭山 金毘羅大権現 一度まわれば」との民謡が歌われ始める。
明治元年(1868年)の神仏分離令で、金刀比羅宮と改称し、祭神の名を大物主神と定める。また、祭られていた宥盛は厳魂彦命と名を変え、明治38年(1905年)には現在の奥社へと遷座される。それまで金毘羅大権現の本地仏として祀られていた本尊十一面観音像は信仰の対象から外されたが、社宝として現在も観音堂に納められている。不動明王、毘沙門天の2体の脇侍仏は破却の危機に直面したが松尾寺の末寺である万福院住職宥明によって救い出された。その後、所在は転々としたが、明治15年(1882年)、裸祭で知られる岡山市の真言宗寺院、西大寺の住職光阿によって同寺に勧請され、あらためて金毘羅大権現の本地仏として祀られ現在に至る。
古くから信仰を集め、こんぴら講に代表される金毘羅信仰を後世に伝えるため、昭和44年(1969年)8月5日、宗教法人金刀比羅本教の設立認可を受け、金刀比羅本教の総本宮となった。総本部は金刀比羅宮の大門近くにある。金刀比羅本教は神社本庁に属さない単立宗教法人であるが、金刀比羅宮自体は神社本庁の被包括法人であり、別表神社に指定されている。
[編集] 境内
象頭山の中腹に鎮座し、参道の石段は奥社まで登ると1368段にもなる。
- 本宮
- 桧皮葺の大社関棟造りで、大物主神と崇徳天皇を祭る。
- 厳魂神社(いづたまじんじゃ)
- 奥社と呼ばれ、1368段の石段を登りきった先に鎮座する。戦国時代の別当である宥盛を明治に入り厳魂彦命として祭った。
- 絵馬殿
- 航海の安全を祈願した多くの絵馬が見られ、安全祈願をした漁船、タンカーの写真やソユーズに搭乗した秋山豊寛の絵もある。
- 旭社(重要文化財)
- 天保8年(1837年)に建立された銅瓦葺の二層入母屋造の建物で、全体に多くの美しい彫刻がなされている。神仏分離以前の松尾寺の金堂であり、そのあまりの豪華さに江戸時代に参拝した森の石松は本堂と誤り、ここへの参拝のみで帰ってしまったと伝えられる。
- 書院(重要文化財)
- 万治2年(1659年)に建立された書院造りによる建物。内部は圓山應挙らによる障壁画で飾られている。
- 大門
- これより内が境内で、有栖川宮熾仁親王筆の「琴平山」の額が掲げられる。門をくぐると特別に境内での営業を許された五人百姓が加美代飴を売っている。
- 宝物館(登録有形文化財)
- 明治38年(1905年)に建てられた石造、二階の宝物館。
[編集] 境外
門前町の琴平町には多くの土産物屋が並ぶ。参道は江戸時代には金毘羅街道と呼ばれ多くの燈篭が備えられ、丸亀や多度津の港は参道口として栄えた。
- 鼓楼(ころう)
- 参道途中の大門傍にあり、中にある時太鼓は今も朝夕に打ち鳴らされる。
- 旧金毘羅大芝居(重要文化財)
- 金丸座とも呼ばれ、天保7年(1836年)参道近くに建てられた、現存する日本最古の芝居小屋で、今も毎年春に「四国こんぴら歌舞伎大芝居」として歌舞伎が公演される。
- 鞘橋(登録有形文化財)
- 門前の金倉川に架かる橋。銅葺唐破風の屋根がかかるアーチ式の木造橋で、刀の鞘の様に反った形から鞘橋と呼ばれる。洪水で何度も架け替えられ、現在の橋は明治2年(1869年)に阿波国鞘橋講中により寄進された。例大祭の時のみ用いられる。
- 高燈篭
- 琴電琴平駅の隣に建つ。
- 金毘羅講燈篭
- 江戸時代に江戸の商人が寄進した燈篭で、香川県丸亀市の港に一基が現存し、寄進者の名を冠し太助燈篭(たすけどうろう)と呼ばれている。
- 金陵の郷
- 琴平の酒蔵である金陵が参道に面し設けた日本酒の資料館で、江戸時代の酒造りに用られた道具などを見ることができる。
- 牛屋口(うしやぐち)
- 金刀比羅宮の南の入口。象頭山南側にあり、鳥居や燈篭などがある。
- 土佐・伊予と讃岐をつなぐ主要街道であった金毘羅街道(旧伊予土佐街道)は、幕末には坂本龍馬、中岡慎太郎などの脱藩者、また高杉晋作などが、往来する際にこの道を使ったといわれる。そのため、この牛屋口には観光用として設置された坂本龍馬像がある。併設の「峠の茶屋」(藁葺き小屋)は現在使用されていない。また牛屋口付近からは、改修工事のために整備された道路(管理者も駐在し一般者は通行不可)があり、本宮や絵馬殿付近まで続いている。
- 旧伊予土佐街道(金毘羅街道)
- 土佐・伊予と讃岐をつなぐ旧主要街道。
- (牛屋口~参道間について)金毘羅さんへの街道として、また主要道路であった時期には繁栄しており、多く立てられている石燈篭にも大正末期頃まで明かりが灯っていた。しかし、国道などの他のルートが出来ると共に衰退し、石燈篭の一部を盗まれるなど、荒廃が進み、現在では鳥居や石燈篭を残すのみとなっている。参拝にこの道を使われることは、地元の人が正月にわずかに使用するのみである。この区間の街道途中にある広谷墓所には、代々の別当職が眠る墓が建てられている。
[編集] 文化財
[編集] 重要文化財
- 建造物
- 旭社
- 四脚門
- 表書院
- 奥書院
- 美術工芸品
- 絹本著色弁財天十五童子像
- 紙本著色なよ竹物語絵巻
- 紙本墨画竹林七賢図 16枚
- 円山応挙の筆による書院七賢の間の障壁画。
- 紙本墨画遊虎図 24枚
- 紙本墨画遊鶴図 17枚
- 応挙の筆による書院鶴の間の障壁画。
- 紙本墨画瀑布及山水図 33枚
- 応挙の筆による書院鶴の間上段及二の間の障壁画。
- 木造十一面観音立像
- 平安時代に作られた檜材の一木造の仏像。旧松尾寺の観音堂の本尊であった。
- 太刀 銘長光
- 太刀 銘備州長船(以下不明)明徳(不明)年(不明)月
- 師光による作と伝わる。
- 短刀 銘筑州住国弘作
- 伏見天皇宸翰御歌集
[編集] 交通
- 最寄駅
なお、かつては琴平参宮電鉄・琴平急行電鉄といった路線も琴平に発着しており、1930年~1944年には4つの路線がひしめき合っていた。