松江藩
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松江藩(まつえはん)は出雲一国を領有した藩。藩庁は松江城(島根県松江市)。藩主は外様大名の堀尾氏、京極氏と続き、親藩の越前系松平氏が廃藩置県まで支配した。
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[編集] 藩史
[編集] 前史・堀尾時代
豊臣政権時代、出雲は中国地方西部を領有していた毛利氏によって支配されており、一族の吉川広家がかつて尼子氏の居城であった月山富田城を政庁として出雲一国を支配した。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、毛利氏は敗戦により防長2国に減封となり、吉川広家も岩国に移された。これにより遠江国浜松にて12万石を領有していた堀尾吉晴が出雲国・隠岐国2国24万石にて入封。出雲富田藩(いずもとだはん)が立藩した。
吉晴も当初、月山富田城を政庁とした。しかし山城であり不便を感じたため、慶長12年(1607年より足かけ5年をかけて松江城及びその城下町の建設を行った。慶長16年(1611年)に吉晴は松江城に移って松江藩として成立、以後は松江が当藩の政治経済の中心となった。寛永10年(1633年)3代・忠晴は嗣子なく没し改易となった。
[編集] 京極時代
代わって寛永11年(1634年)若狭国小浜藩より京極忠高が入封。24万石の領地に加え、天領の石見銀山、石見国邇摩郡・邑智郡の計4万石を代理統治することとなった。僅か3年後の寛永14年(1637年)忠高は死去した。死に臨み末期養子として甥の高和を立てたが認められず改易となった。しかし、高和は同年、祖先の勲功を理由に播磨国龍野藩6万石の大名に取り立てられた。この時点で隠岐は天領となった。
[編集] 松平時代
翌、寛永15年(1638年)松平直政が18万6千石で信濃国松本藩より転封。以後、越前家の領有するところとなった。また、松平氏は幕府より隠岐1万4千石を預かり、代理統治することとなった。
藩の財政は年貢米による収入のみでは立ち行かず入封当初より苦しかった。このため早くから専売制を敷き、木蝋・朝鮮人参・木綿そして鉄の生産を統制した。特に鉄は古くからたたら製鉄、たたら吹き(タタラ)により砂鉄から鉄を生産することが盛んであった。享保11年(1726年)5代・宣維は田部(たなぶ)・桜井・絲原(いとはら)の大山林地主3家を中心に組合による独占制度での製鉄をおこなった。
7代・治郷(号・不昧(ふまい))は特に有名な藩主である。先代・宗衍の代より藩政改革に着手していた家老・朝日茂保(通称・朝日丹波)を引き続き起用し、財政再建を推進した。このため寛政年間(1789年~1801年)には8万両もの蓄財が出来るまでになった。不昧は藩財政の好転を期に、かねてからの趣味であった茶道、特に名器のコレクションを行った。そのカタログである「雲州蔵帳」、著書「古今名物類聚」・「瀬戸陶器濫觴(上中下三巻)」は茶道研究の重要な資料の一つとなっている。また、松江の町はこの時より京都・奈良・金沢と並び和菓子の一大名所となった。
幕末の松江藩は政治姿勢が曖昧で幕府方・明治新政府方どっちつかずであったため新政府の不信を買った。結局は新政府方に恭順することとなり、戊辰戦争に参戦。慶応4年(1868年)京都の守備についた。
同年には隠岐騒動が起こり、統治していた松江藩代官が島民の蜂起により追放されるという事態となった。江戸時代中期から頻繁に起こっていた隠岐での飢饉への対処不足、外国船の来航・上陸に対する無為無策ぶりなど島民の不満が高まり遂には武装蜂起となって表れた。代官追放後、島では自治政府が開かれ、一旦は松江藩に奪い返されたものの鳥取藩・新政府の介入により再び自治政府が開かれ、後、鳥取藩の預かりとなった。明治2年2月25日(1869年4月6日)には廃藩置県よりも2年早く隠岐県が誕生している。
松江藩は明治4年(1871年)の廃藩置県により松江県となり、後、島根県に編入された。
支藩として、広瀬藩・母里藩、また一時存在した松江新田藩がある。
松平氏は明治17年(1884年)伯爵となり華族に列した。
[編集] 歴代藩主
[編集] 堀尾(ほりお)家
外様 24万石 (1600年 ~ 1633年)
[編集] 京極(きょうごく)家
外様 24万石 (1634年 ~ 1637年)
- 忠高(ただたか)〔従四位下・若狭守、左少将〕
[編集] 松平(まつだいら)〔越前(えちぜん)〕家
親藩 18万6千石 (1638年 ~ 1871年)
- 直政(なおまさ)〔従四位上・出羽守、左近衛権少将〕
- 綱隆(つなたか)〔従四位下・出羽守、侍従〕
- 綱近(つなちか)〔従四位下・出羽守、侍従〕
- 吉透(よしとう)〔従四位下・出羽守、侍従〕
- 宣維(のぶずみ)〔従四位下・出羽守、左近衛権少将〕
- 宗衍(むねのぶ)〔従四位下・出羽守、左近衛権少将〕
- 治郷(はるさと)〔従四位下・出羽守、左近衛権少将〕
- 斉恒(なりつね)〔従四位上・出雲守、左近衛権少将〕
- 斉貴(なりとき)〔従四位上・出羽守、左近衛権少将〕
- 定安(さだやす)〔従四位上・出雲守、左近衛権少将〕
[編集] 支藩
[編集] 広瀬藩
広瀬藩(ひろせはん)は松江藩の支藩である。藩庁として能義郡広瀬(現・安来市広瀬町)に陣屋が置かれた。
寛文6年(1666年)松江藩初代藩主・直政の2男・近栄が3万石を分与され立藩した。天和2年(1682年)近栄は越後騒動に荷担した罪から知行を半減されたが、貞享2年(1686年)に5千石、元禄7年(1694年)1万石と加増され、再び3万石となり、以後10代205年間在封した。嘉永3年(1850年)8代・直寛は幕府公役の勤を評され城主格となった。
明治4年(1871年)廃藩置県により広瀬県となり、島根県に編入された。
松平氏は明治17年(1884年)子爵となり華族に列した。
[編集] 歴代藩主
- 松平(まつだいら)〔越前(えちぜん)〕家
3万石→1万5千石→2万石→3万石 (1666年~1871年)
- 近栄(ちかよし)〔従五位下・上野介〕3万石→1万5千石→2万石→3万石
- 近時(ちかとき)〔従五位下・式部少輔〕
- 近朝(ちかとも)〔従五位下・隼人正〕
- 近明(ちかあきら)〔従五位下・式部少輔〕
- 近輝(ちかてる)〔従五位下・式部少輔〕
- 近貞(ちかさだ)〔従五位下・淡路守〕
- 直義(なおただ)〔従五位下・淡路守〕
- 直寛(なおひろ)〔従四位下・宮内大輔〕
- 直諒(なおよし)〔従五位下・佐渡守〕
- 直巳(なおおき)〔従五位下・佐渡守〕
[編集] 母里藩
母里藩(もりはん)は松江藩の支藩である。江戸時代中期までは神戸藩(かんべはん)と称した。藩庁として能義郡母里(現・安来市伯太町)に陣屋が置かれた。
寛文6年(1666年)松江藩初代藩主・直政の3男・隆政が1万石を分与され立藩した。
隆政は領地の分与はされず、2代直丘の時に所領が確定した~貞享元年(1684)。
隆政には子がなく、延宝3年(1673年)死去。死の前に弟・直丘を末期養子に願い出たが認められず、一時廃藩となった。1ヶ月の後、直丘に隆政の遺領1万石が与えられ家名が相続された。
4代・直道は嗣子がなかったため、家臣の平山弾右衛門は我が子を藩主の落胤と称し藩の乗っ取りを計画した。松江藩の知るところとなり弾右衛門は死罪となった。結局、直道の弟・直行が5代藩主となった。
なお、当藩の藩主は参勤交代を行わない江戸定府の大名であった。
また、江戸藩邸は今のブラジル大使館付近(港区北青山二丁目)にあり対外的な執務は家老(200石~400石)の小沼氏らが、また国許は国家老市川氏、狩野氏らが政務を執り行っていた。
明治4年(1871年)廃藩置県により母里県となり、島根県に編入された。
石高:1万石
実高:9,500~10,500石程度(推計) 17世紀後半には15,000石という推計もある
集落:20ヶ村(正保国絵図、郡村誌などより)
人口;5,000~10,000人程度(1700年初頃=正徳年間_郡村誌、奥野家文書郷土母里、などより推計)
藩主:越前松平家分家(極冠は従五位、帝鑑間詰)
菩提寺:一乗寺 島根県能義郡伯太町井尻1927 浄土宗
天徳寺 港区虎ノ門
家紋:丸三九葉三葉葵巴(裏紋は六つ葵・三鐶三九葉三葉葵巴)
[編集] 歴代藩主
- 松平(まつだいら)〔越前(えちぜん)〕家
1万石 (1666年~1673年、1673年~1871年)
- 隆政(たかまさ)〔従五位下・左近大夫 奏者番〕
- 直丘(なおたか)〔従五位下・美作守〕
- 直員(なおかず)〔従五位下・志摩守〕
- 直道(なおみち)〔従五位下・大隅守〕
- 直行(なおゆき)〔従五位下・兵庫頭〕
- 直暠(なおきよ)〔従五位下・美作守〕
- 直方(なおかた)〔従五位下・志摩守〕
- 直興(なおおき)〔従五位下・志摩守〕
- 直温(なおより)〔従五位下・志摩守〕
- 直哉(なおとし)〔従五位下・主計頭〕
[編集] 松江新田藩
松江新田藩(まつえしんでんはん)は江戸時代中期に一時、松江藩内の新田を領有した支藩。元禄14年(1701年)松江藩2代・綱隆の2男・近憲が1万石を分与され立藩した。近憲は宝永元年(1704年)兄で3代松江藩主・綱近の養子(のちの4代藩主・吉透)となり、所領は松江藩に還付され廃藩となった。