仁賀保挙誠
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仁賀保 挙誠(にがほ たかのぶ、永禄3年(1560年) - 寛永2年2月24日(1625年4月1日))は、戦国時代の武将。江戸時代前期の大名で、出羽仁賀保藩主。妻は大井満安の娘・鶴姫。官位は従五位下、兵庫頭。
出羽国由利郡の豪族が結集してできた連合の由利十二頭の筆頭であった。赤尾津氏の出身者であるが、仁賀保挙晴の養嗣子となって仁賀保氏を継いだ。天正18年(1590年)、豊臣秀吉から所領を安堵され、文禄の役では肥前名護屋城に駐屯している。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、西軍に与した上杉氏を攻めて、上杉氏の家臣である下尾治右衛門なる者が守る城などを次々と落とすという功績を挙げた。このため、後に徳川家康から所領を安堵され、感状を与えられている。
慶長7年(1602年)、常陸国武田5000石に移封される。慶長19年(1614年)からの大坂の役では淀城の守備を務めた。元和2年(1616年)に伏見城番、元和9年(1623年)には大坂城の守衛を務めるなどの功績を評価されて、幕府より同年10月18日、旧領の仁賀保に1万石の所領を与えられ、大名として遇されることとなった。寛永2年(1625年)2月24日に死去。享年66。
死後、家督は長男の仁賀保良俊が継ぐが、所領は良俊に7000石、次男・仁賀保誠政に2000石、三男・仁賀保誠次に1000石とそれぞれ分封されて旗本となり、仁賀保藩はわずか2年で廃藩となった。後に良俊の家系は断絶したが、誠政流、誠次流の家系は明治時代まで存続した。
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