仙石忠政
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仙石 忠政(せんごく ただまさ、1578年(天正6年) - 1628年5月23日(寛永5年4月20日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将(大名)。仙石秀久の次男であったが、兄秀範が父より勘当されて廃嫡されたため、嫡男となった。
父と共に徳川家康に仕えた。1600年の関ヶ原の戦いでは、父(仙石秀久)、子(仙石忠俊)と共に東軍に属し、真田昌幸(西軍)の信濃国上田城攻めに参加した。この時の功により、徳川秀忠の忠の字を拝領して、忠政と改めたといわれている(忠政は、はじめは久政と名乗っていた)。また、この時期に従五位下兵部大輔も受任している。1614年、父の死により家督と信濃国小諸5万石の所領を継承する。その後は農村の復興など父秀久が残した課題に取り組み、領内の安定に努めた。
同年から始まった大坂の陣では、徳川方に与して功を挙げた。その戦功により、信濃国上田6万石に加増移封された。 1626年より上田城の大改修にとりかかったが、1628年その完成前に51才で病没し、江戸高輪の東禅寺に葬られた。
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