上田藩
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上田藩(うえだはん)は江戸時代に信濃国小県郡上田(現在の長野県上田市)周辺を支配した藩。藩庁は上田城。
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[編集] 概要
[編集] 真田氏藩主時代
上田は徳川家康の家臣として小県郡を平定した真田昌幸が、天正13年(1585年)頃この地に上田城を築いたことで開かれた。昌幸は旧主である武田信玄に倣って領民には善政を敷き、上田はこの地域における中核的な城下町として成長していった。
天正13年(1585年)に第一次、慶長5年(1600年)には第二次上田合戦が勃発。この時、真田氏は徳川氏から大軍で攻められているが、その都度真田軍は少数先鋭の巧妙な作戦で徳川の大軍を退けている。しかし、第二次上田合戦では昌幸は本戦である関ヶ原合戦で敗れた西軍に与していため、昌幸・真田信繁(幸村)父子は紀州九度山に幽閉された。
代わって上田領は、真田氏が東西のどちらについても存続できるようにとの昌幸の策略で東軍に従っていた昌幸の長男・真田信之に与えられた。信之は元和2年(1616年)に上田に移り、それまで信之の本拠であった沼田藩は信之長男・真田信吉が継いだ。元和8年(1622年)、幕命によって信之は信濃松代藩へ移封された。
[編集] 仙石氏藩主時代
忠政は上田城修築などに尽力したが、寛永5年(1628年)に死去。後を子の仙石政俊が継いだ。政俊は検地を主流とした土地制度改革を行なったが、結果として失敗し、結局、上田の収入は貫高制のまま移行できなかった。政俊の子・仙石忠俊は父に先立って早世していたため、孫の仙石政明が寛文9年(1669年)に後を継いだ。このとき、忠政の三男・仙石政勝が小県郡の内で2000石を分与されている。そして宝永3年(1706年)、政明は但馬国出石藩へ移封された。
[編集] 松平(藤井)氏藩主時代
仙石氏に代わって、松平忠周が5万8000石で入った。
初代・忠周は領内の支配体制を固め、京都所司代や老中を歴任している。享保13年(1728年)に忠周は死去し、後を子の松平忠愛が継いだ。このとき、弟の松平忠容に川中島の内で5000石を分与されている。このため、上田藩領は5万3000石となる。
寛延2年(1749年)、忠愛は隠居してその子・松平忠順が継いだ。この忠順の宝暦11年(1761年)に大規模な百姓一揆が発生した。天明3年(1783年)に忠順は死去し、その子・松平忠済が継いだ。ところが忠済は嗣子に恵まれず、彼の晩年には相続問題が発生。このため、分与した忠容系統から松平忠学を養嗣子として迎え、文化9年(1812年)に忠済は隠居して忠学に家督を譲った。この忠学は有能で、翌年には藩校・明倫堂と武芸稽古所(演武場)を設けている。また、軍制制度・土地制度の改革なども行なっている。文政13年(1830年)に忠学は隠居し、姫路藩より迎えた酒井忠実の子・酒井玉助を養子とし、玉助はのちに松平忠固と名乗り家督を相続。忠固は奏者番・寺社奉行加役・大坂城代・老中などを歴任する。第13代将軍・徳川家定の嗣子をめぐって南紀派と一橋派による争いが起こると、忠固は南紀派に与して井伊直弼の大老就任などに尽力した。しかし忠固はやがて直弼の安政の大獄問題から対立して老中職を罷免され、安政6年(1859年)に死去した。忠固の後はその子・松平忠礼が継いだ。ところが亡父が幕政に参与して藩政を顧みなかったために藩財政が悪化し、藩内部では藩政の主導権をめぐって藩内で政争が起こるなどの混乱が続いた。
戊辰戦争では新政府側に与して北越に出兵する。明治2年(1869年)、忠礼は版籍奉還を行なって藩知事となったが、同年に領内で大規模な騒動が起こった。明治4年(1871年)の廃藩置県で上田藩は廃されて上田県となる。そして同年11月、上田県は長野県に吸収されたのである。
[編集] 歴代藩主
[編集] 真田(さなだ)氏
外様、6万石→9万5000石。
[編集] 仙石(せんごく)氏
外様、6万石→5万8000石。
[編集] 松平(藤井)(まつだいら(ふじい))氏
譜代、5万8000石→5万3000石。
- 松平忠周(ただちか)<従四位下。伊賀守。侍従>
- 松平忠愛(ただざね)<従五位下。伊賀守>
- 松平忠順(ただより)<従五位下。伊賀守>
- 松平忠済(ただまさ)<従五位下。伊賀守>
- 松平忠学(たださと)<従五位下。伊賀守>
- 松平忠固(ただかた)<従四位下。伊賀守。侍従>
- 松平忠礼(ただなり)<従五位下。伊賀守>