小諸藩
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小諸藩(こもろはん)は信濃国小諸(現在の長野県小諸市)に存在した藩。藩庁は小諸城。
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[編集] 藩史
[編集] 仙石氏の時代
小諸藩の藩祖は、豊臣秀吉の家臣・仙石秀久である。秀久といえば天正4年(1586年)の九州出陣で軍監として無謀な作戦を主張し、結果として豊臣軍大敗の原因を作った上、長宗我部信親と十河存保を戦死させてしまう原因を作り出してしまった武将である。その際、混乱の軍を収拾することなく単独で戦場を離脱したため、島津方からは三国一の臆病者と罵られた。しかしその後、秀久は秀吉より小田原征伐での功績を評価され、天正18年(1590年)、信濃国小諸5万石を与えられた。秀吉死後の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠率いる上田城攻めの東軍別働隊に属したため、戦後も領地は安堵された。慶長8年(1603年)に徳川家康が江戸幕府を開き幕藩体制を開始した結果、秀久が小諸藩の藩祖となった。慶長19年(1614年)、秀久が死去した後は子の忠政が後を継いだが、忠政は元和8年(1622年)に信州上田藩へ移封され、小諸藩は一時、廃藩となった。
[編集] 廃藩、藩主交替期
仙石家の上田藩移封廃藩後、小諸の地は第2代将軍・徳川秀忠の子・徳川忠長(甲府藩主)の所領として併合された。
寛永元年(1624年)、松平憲良が美濃国大垣藩より5万石で入った。しかし憲良は正保4年(1647年)に死去。嗣子が無く改易されてしまった。その後、再び廃藩となり松本藩領となった。
慶安元年(1648年)、大番頭より抜擢された青山宗俊が3万石の大名として小諸に入った。このとき、八重原用水・御影用水などが造られている。
寛文2年(1662年)、大坂城代に転出した宗俊に代わって酒井忠能が上野国伊勢崎藩より3万石で入った。ところが忠能は寛文10年(1670年)、領内に検地を実施し、百姓にたいして苛酷な政治を行なったため、領内で領民による一揆が発生し、延宝7年(1679年)に駿河国田中藩へ移封された。
酒井忠能と入れ替わりで西尾忠成が2万5000石で入り、忠能の失政を改めようと尽力した。しかし天和2年(1682年)、忠成は遠江国横須賀藩へ移封された。
西尾忠成に代わって常陸国小張藩より松平乗政が2万石で入った。乗政の死後はその子・松平乗紀が継いだが、元禄15年(1702年)に美濃国岩村藩へ移封された。
[編集] 牧野氏の時代
元禄15年(1702年)に越後国与板藩より牧野康重が1万5000石で入ることで、ようやく藩主家が安定し、廃藩置県まで藩主を務めた。康重は、本庄氏の一族に連なったので、5代将軍・徳川綱吉の生母、桂昌院の義理の甥にあたる。康重には、特別な功労があったわけではないが、桂昌院コネクションで、3万石の領地が与えられて、5万石の格式はある小諸城主に栄転となった。
康重は綱吉の従弟にあたるため、当初から、3万石以上の領地を与えられたが、1万5000石とした。嫉妬や批判を警戒したためであろう。小諸城主に着任後、牧野氏は、熱心に新田開発に取り組み約180年間で、9000石を増産した(幕末の実高〔内高とも云う〕は、3万9000石)。小諸藩主・牧野氏の出自は、牧野康重の祖父・康成が、長岡藩・牧野氏の領地の内、1万石を分与されて、三島郡与板に陣屋を構えて立藩した譜代極小藩であった。こうした事情で表向きは、小諸藩を1万5000石と称することにしたと云う秘話がある。
また小諸藩・牧野氏は、長岡藩の領地と、家臣団を分与されたと云う由来があったため、本藩の長岡から、政事上の監督を受け、家風は、長岡を見習うこととし、家老人事をはじめ重要事項は、内諾を得る必要性があった。その旨の誓約書が、長岡藩に提出されていた。
小諸に実質3倍の栄転となった牧野氏は、家臣団の増員に迫られた。その給源は、本藩の長岡からの移籍者や、部屋住み身分の者を分家として分出させたほか、古参の足軽50人、同じく中間20人が登用された。また高崎で浪人暮らしをしていた上野国沼田藩・真田家浪士を、数人から10人未満程度、新規召し抱えをしたのが特徴的である。 石高・家臣の員数に比べて、小諸城は、大きかったので、城下の足軽の多くは長屋に入らず、門戸・玄関を持つ一戸建ての屋敷を与えられた。これは諸藩と比較して、非常に珍しい例である。
康重の後を継いだ牧野康周時代の寛保2年(1742年)千曲川流域で未曾有の大水害(「戌の満水((いぬのまんすい)」)が起こり、小諸藩でも死者584人が出るという大被害に至った。その後も水害が起こり、ときには幕府に救金を要請するほどであった。
3代・康満の天明3年(1783年)浅間山の大噴火がおこり、凶作となった。ときの城代家老・牧野八郎左衛門が噴火の様子を著述した日記が現存しており、史料的価値が高いとされる。
6代・康長は学問家で、文学奨励をモットーとして文化2年(1805年)、信濃における諸藩に先駆けて藩校・明倫堂を開校した。この藩校では学問の他に剣術・砲術・馬術・槍術を必須科目とし、「父は義」・「母は慈」・「子は孝」・「兄は友」・「弟は恭」の五教を明倫堂の教訓として多くの子弟教育を行なった。明倫堂の開校にあたっては、藩士村井氏・新参の天野氏に功績があった。
9代・康哉は、井伊直弼大老派に属していたと云われ、奏者番・若年寄などの要職を歴任する一方、西洋から種痘の医術が伝来したのを見て、藩医を江戸に派遣してこれを学ばせた。そして天然痘で苦しむ領民に強制的に種痘を実施(領民は最初、種痘を信用しなかったため、康哉は我が子に種痘を実施して証拠を見せた)した。種痘はその後も実施され、小諸藩は全国諸藩に先駆けて種痘が2万人以上も実施されたと言われている。
また中禄(給人級)の家柄であった高崎氏・高栗氏を三奉行に登用して、財政改革を中心とする藩政改革にも着手した。小諸城下の豪商・小山九左衛門・柳田五兵衛・高橋平四郎等に、馬廻り格の身分を与えて、特権的商人となし、産業経済の醸成を図ったが、果実を得たのは、明治維新後となった。
文久3年(1863年)に最後の藩主となった康済(康哉の子)には、名君と称された父と違って藩主としての能力が無く、慶応2年(1866年)には小諸騒動が起こる。このときは河井継之助の調停によって解決している。慶応4年(1868年)、康済は信濃追分において赤報隊と戦ってこれに勝利したが、これが原因で新政府に逮捕された。その後、岩倉具視や碓氷峠の守備などで功を挙げたため罪を許されたが、直後に小諸騒動が再燃して藩内で混乱が続いた。
明治元年(1868年)11月9日(新暦12月22日)には、八郎左衛門流牧野氏・真木氏・高崎氏・高栗氏が、反対派の家老・加藤氏の謀略によって、斬首刑となり、太田氏出奔と云う事件がおきた。加藤氏の謀略は、露見して、彼もまた永禁固(無期禁固)となった。
小諸藩では、お家騒動のため、藩内に不信感が渦巻き、明治2年(1870年)、版籍奉還後の家老職に相当する大参事を独自に出すことができず、長岡藩よりこれを招いた。
藩主・康済は、明治2年(1869年)、版籍奉還により小諸藩知事となる。翌年、康済は従五位下、小諸県知事に叙せられた。そして明治4年(1871年)7月、廃藩置県により小諸県となり、同年12月には長野県に吸収されたのであった。
主家は、康済が康民と名を改めて、華族(子爵)に列したが、その家督を相続した康強は、妻帯をせずに子がないまま没した。家督は、公家出身の醍醐氏から、養子(牧野康愛)を迎えて辛うじて存続された。
[編集] 藩領
現在の小諸市中心部のほか、依田信蕃とその子松平源十郎康国の城主時代の歴史的経緯から立科町の芦田付近までを領有していた。また、新田開発も行われ、御影新田は小諸藩による開発の後、天領となった。
小諸藩の新田開発として著名なものとして、小諸藩主青山氏の上級家臣であった黒沢氏が、藩主の転封に随従せずに残留して、開発を続けた黒沢新田が著名である。
[編集] 黒字財政の小諸藩
牧野氏は、新田開発に熱心に取り組みその藩領の実高は、幕末には39000石となっていた。
廃藩置県に際して藩財政の精算が行われたところ信濃国内で、唯一の黒字であった。全国的にみても、累積負債で苦しんでいた藩が多かった中で、小諸藩は稀少である。
表高が15000石で、実高が39000石とその差が2.6倍と大きく、幕府に対する軍役・参勤交代の行列・交際費などは、15000石の格式で行えばよかったことが最大の原因と推察される。
但し元禄15年(1702年)に牧野氏が小諸に移封されてから、明治維新まで財政が常に順風満帆であったと云うわけではなく、凶作や江戸藩邸の火災などのため藩士の俸禄をカットしたり、幕府から借財をしたこともあった。
[編集] 小諸藩主牧野氏
[編集] 牧野氏の出自から小諸藩主まで
藩主牧野氏の直接・確実な先祖は、室町・戦国期に三河国宝飯郡(現、愛知県豊川市)の牛久保城主・牧野成定(1525年生まれ - 1566年没)であり、現、豊橋市界隈まで影響力を持っていた土豪であった。
牧野氏は、徳川家康の父祖代々の家臣ではなく、戦国大名の今川氏に与して三河統一を目指す家康に、真木氏と共に抵抗していた。
永禄8年(1565年)から翌9年頃に恭順・若しくは降伏した歴史を持つ。その頃の所領は6000石から7000石であったとされる。牧野氏は、最盛期には東三河の旗頭たる勢力があったとも云われるが、牧野成定以前の系図は、諸説紛々で定説をみない。 牧野氏の詳細な出自については、三河牧野氏を参照されたい。
家康が天下人の道を歩んだため、牧野氏は譜代大名となり国替えにより、江戸時代初期には、本藩の長岡藩のほかに、支藩を含めて、解釈の仕方にもよるがおよそ10万石の領地を持つまでに成長していた。
長岡藩初代藩主・牧野忠成の次男康成(武成とも云う)が、1634年(寛永11年)に長岡藩領の内、三島郡与板(與板)に1万石を分与され、長岡藩の支藩として立藩した。このときの家臣筆頭は倉地弥治衛門直秀であったが、彼は後に本藩の長岡に帰参した。
明暦3年(1657年)まで藩主は与板に赴任せず23年後に、ようやく与板の陣屋に引っ越しをした。
そして3代目の牧野康重が信濃小諸城に栄転したものである。
[編集] 小諸藩牧野氏の職制と重臣
小諸藩牧野氏の職制は、小さな藩であることもあり簡素であったので、家老職(定数3・例外4)があったほか中老職・年寄役・年寄衆は、存在しなかった。
他藩と比較して、用人の地位が重い藩であって、原則として3人の用人が常置され、江戸家老・城代家老・国家老をそれぞれ補佐をしていた。非常置の役職として江戸家老・城代家老・国家老の上に上席家老が置かれることもあった。
また藩主の枢機に預かり、藩主家の家政を総覧した側御用人とあわせて、用人職は7名から9名程度が置かれていた。
小諸藩では、家格のうち、上級なものとして、家老、用人、番頭、者頭(物頭)、奏者、給人があった。江戸留守居役は番頭と同格であるが、江戸留守居役には特別手当がついた。江戸留守居役の相対的地位が高いのは、小さな藩の特徴である。 大目付は、者頭(物頭)級であるが、給人クラスからも抜擢されることがあった。監察のほか城番組支配にもあたった。城番組とは藩主の国替えに随従しない城付きの卒分身分の下級家臣である。
小諸藩主、牧野氏では、番頭職に3代以上、就任すると、上禄の家柄と制度上、呼ばれていたので、狭義の上級家臣は、番頭以上の者を指すと言えよう。小諸の本家(本藩)である長岡藩主・牧野氏では、用人より番頭のほうが格上である。また小諸藩には、奉行という役職はあったが、奉行格という家柄・家格は存在しなかった。本藩長岡で奉行といえば、家老の補佐職として藩政全般に参与できる重役であるが、小諸藩の奉行は三奉行(町奉行・寺社奉行・勘定奉行)に相当するため、家格は給人に相当する。このように職制は、小諸藩と、長岡藩は同じとはいえない。
中級以下の藩士が家老などの要職に抜擢された例はなく、保守的な人事を行っていた。
比較的門閥が平均化しており、有能な者が一代家老に抜擢された例も多いが、その反面、家老になれる機会を争って、お家騒動や派閥争いが起こりやすい土壌があった。
廃藩置県の時点で、家老格連綿の家柄として、牧野氏(牧野八郎左衛門家)・真木氏(真木権左衛門家)・牧野氏(牧野庄兵衛家)・稲垣氏・加藤氏があった。家老格連綿の家柄に次ぐ、家格であった用人格として、木俣氏・本間氏・村井氏・佐々木氏・鳥居氏・太田氏・河合氏・倉地氏があった。小諸藩において倉地氏以外の用人格の格式を持つ家は、過去に一代家老に1度以上、抜擢された実績・筋目を持っているので、着座家とも云えるのである。
同様に廃藩置県の時点で士分格式128戸、卒分格式163戸があった。士分格式のうち19戸が上禄の家格とされていた。
なお、家臣団の詳細については小諸藩の家臣団を参照の事。
[編集] 歴代藩主
[編集] 仙石(せんごく)家
[編集] 甲府藩(こうふはん)預かり支配
[編集] 松平(久松)(まつだいら(ひさまつ))家
譜代、5万石(1624年-1647年)
- 松平憲良(のりなが)<従五位下。因幡守>
[編集] 信濃松本藩(しなのまつもとはん)預かり支配
(1647年-1648年)
[編集] 青山(あおやま)家
譜代、4万2000石(1648年-1662年)
- 青山宗俊(むねとし)<従四位下。因幡守>
[編集] 酒井(さかい)家
譜代、3万石(1662年-1679年)
[編集] 西尾(にしお)家
譜代、2万5000石(1679年-1682年)
[編集] 松平(石川・大給)(まつだいら(いしかわ・おぎゅう))家
譜代、2万石(1682年-1702年)
[編集] 牧野(まきの)家
譜代、雁間詰 1万5000石(1702年-1871年)。
- 牧野康重(やすしげ)<従五位下。周防守>
- 牧野康周(やすちか)<従五位下。内膳正>
- 牧野康満(やすみつ)<従五位下。遠江守>
- 牧野康陛(やすより)<従五位下。周防守>
- 牧野康儔(やすとも)<従五位下。内膳正>
- 牧野康長(やすなが)<従五位下。内膳正>
- 牧野康明(やすあきら)<従五位下。周防守>
- 牧野康命(やすのり)<従五位下。遠江守>
- 牧野康哉(やすとし)<従五位下。遠江守>
- 牧野康済(やすまさ)<従五位下。遠江守>