任那
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任那(みまな、にんな、369年 - 562年)は古代に存在した朝鮮半島の南部地域。三韓の中の弁辰、弁韓、および馬韓、慕韓の一部の地に相当し、新羅では加耶、中国や百済、また日本で加羅と称した地域と一部重なり合う。日本語呼称の「みまな」は、漢語表記「任那」から導き出される「nim-na」という語形が、日本語の音節構造に合わせて開音節化(音節末子音に母音が付加されること。この場合はm→ma)した後に、逆行同化(後続音の影響を受けて前部の音が変化すること)によって語頭子音のnがm化した結果成立したものと推定されている。
日本による任那支配は古代以来今日まで一貫して記録され語り継がれてきた事項である。しかし、今日、韓国、北朝鮮では国家規模でこれを否定しようとしている。韓国政府は任那日本府を日韓の外交問題とし、政治的圧力による歴史の抹殺が図られている。(歴史教科書問題)
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[編集] 任那と任那日本府
現在、記紀の記述や調査結果、他に傍証として、広開土王碑、『宋書』倭国伝等の記述をもとに、任那日本府は倭国の属領もしくは貢納国であり、倭国は任那地域に権益(おそらく製鉄の重要な産地があった)を有していたと一般的に考えられている。
一方、1960年代頃から韓国や北朝鮮では民族ナショナリズムが広がり、記紀に記されているヤマト朝廷の直截的な任那支配は誇張されたものだと主張した。また日本でも1970年代頃に[1]、記紀に記されているヤマト朝廷の直截的な任那支配は誇張されたものと主張がなされた。
しかし、1983年に慶尚南道の松鶴洞一号墳が前方後円墳であるとして紹介されて以来、朝鮮半島南西部で前方後円墳の発見が相次いでおり(その後の調査により、松鶴洞一号墳は築成時期の異なる3基の円墳が重なり合ったものであり、前方後円墳ではないことが明らかになった)、これまでのところ全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳が確認されている。また朝鮮半島の前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立したもので、百済の国境沿いに近い伽耶の地のみに存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物を伴うことが知られている。そのため、ヤマト王権と関連する集団(倭臣、倭人集団)が伽耶地域において一定の軍事的影響力および経済的利権を有していたことについてはほぼ確実視されるようになった。またヤマト王権による伽耶地域の直截的な支配があったという説も有力である。
[編集] 中国史料における任那
(『日本書紀』(720年成立)よりも古い記述を含み、信頼性が高いとされる)
- 『三国志』魏書東夷伝・弁辰諸国条の「弥烏邪馬」が任那の前身とする説がある。
- 『宋書』では「弁辰」が消えて、438年条に「任那」が見え、451年条に「任那、加羅」と2国が併記される。その後の『南斉書』も併記を踏襲している。
- 『梁書』は、「任那、伽羅」と表記を変えて併記する。
- 525年前後の状況を記載した『梁職貢図』百済条は、百済南方の諸小国を挙げているが、すでに任那の記載はない。
- 『翰苑』(660年成立)新羅条に「任那」が見え、その註(649年 - 683年成立)に「新羅の古老の話によれば、加羅と任那は新羅に滅ばされたが、その故地は新羅国都の南700~800里の地点に並在している。」と記されている。類書の『通典』(801年成立)、『太平御覧』(983年成立)、『冊府元亀』(1013年成立)もほぼ同様に記述している。
これらから、中国史料における「任那」は、
- 三国時代(220年 - 280年)の「弁辰」に替わって、
- 宋代(420年 - 479年)にはすでに成立しており、
- 450年頃、加羅が任那から分立した。
- 任那は、梁代(502年 - 557年)に、特に525年以前に新羅に滅ばされた。
- 任那の故地に関する記憶は唐の高宗(649年 - 683年)の時代まで残っていた。
と総括できる。
[編集] 朝鮮半島史料における任那
朝鮮半島史料では任那は百済と新羅によって滅ぼされた伽耶諸国とされている。
- 『広開土王碑』400年条の「任那」が史料初見とされている。
- 『鳳林寺真鏡大師宝月凌空塔碑文』(924年成立)に「任那」が見えるが、
- 『三国史記』(1145年成立)の本紀にはなく、列伝に1例が認められる(巻46・強首伝)。
[編集] 日本史料における任那
- 『肥前風土記』(713年成立)松浦郡条に「任那」が見え、
- 『日本書紀』(720年成立)崇神天皇条~天武天皇条に「任那」が多く登場し、
- 『新撰姓氏録』(815年成立)に「任那」、「弥麻那」、「三間名」と見えている。
地理上、任那が朝鮮半島における日本に最も近い地域であり、重要な地域であったことに由来し、日本の史料が最も豊富な情報を提供している。
[編集] 東アジア情勢から見た任那の興起
魏に続く晋代になり、290年頃に八王の乱が起きて中原が乱れると、鮮卑の慕容氏が強勢になって遼東と遼西に進出し、楽浪・帯方両郡は中原との陸路の連絡を絶たれ弱体化した。そして高句麗の攻撃を受けて、313年には楽浪郡が、翌314年には帯方郡が滅亡した。346年には前燕(慕容氏)による高句麗の一時的壊滅と、さらに357年の前燕の中原進出に伴う高句麗の再起と、朝鮮半島南部への政治的圧力関係は、めまぐるしく情勢が変化した。この間に朝鮮半島南部の政治状況は一気に流動化したと考えられ、魏代の弁辰(弁韓)諸国は任那に再編成されたと推測される。一つの仮説ではあるが、その時期は320年から350年、しぼってみると345年から355年頃ではないかと考えられる。
[編集] 中国史料と日本史料の統合による任那の滅亡
- 『日本書紀』512年条に「任那四県」の百済への割譲が記載され、
- 『梁職貢図』(525年頃成立)にはすでに「任那」の記載はない。
これを総合すると「任那」は512年から525年に滅亡したと考えられる。この後『日本書紀』には、「任那復興」と記されているが、これは「任那の貢納の再興」と解することができよう。
なお、通説によれば「任那四県」は現在の全羅南道に比定されている。全羅南道には5世紀後半に比定される前方後円墳が10基以上認められ、倭と密接な関係があったことを窺わせる。
「加羅」は現在の慶尚道に比定されており、したがって「任那」と「加羅」とは同一地域の別称ではない可能性が高いとされる。
また、任那四県割譲(任那滅亡)後に残った加羅国(から)、安羅国(あら)、斯二岐国(しにき)、多羅国(たら)、率麻国(そつま)、古嵯国(こさ)、子他国(こた)、散半下国(さんはんげ)、乞飡国(こつさん、さんは、にすいに食)、稔礼国(にむれ)の十国を総称して任那と呼んだという記述もあるが、これは滅亡した任那の貢を代行して納める国々として解される。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献・脚注
- ^ 井上秀雄『任那日本府と倭』(東出版、1973)、同『古代朝鮮』(講談社学術文庫、2004 ISBN 4-06-159678-0(原著『古代朝鮮』日本放送出版協会、1972))など。井上は、「任那日本府」とは『日本書紀』が引用する『百済本紀』において見られる呼称であり、6世紀末の百済が高句麗・新羅に対抗するために倭国(ヤマト王権)を懐柔しようとして、『魏志』(『三国志』)韓伝において朝鮮半島南部の諸国を表していた「倭」と、日本列島の倭人の政権とを結びつけて、ヤマト王権の勢力が早くから朝鮮半島南部に及んでいたかのような印象を与えるに過ぎず、実際の『百済本紀』の記述では、任那日本府とヤマト王権とは直接的には何の関係も持たないことが読み取れると主張した(→井上2004 pp.106-107.)。