伊東祐相
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伊東 祐相(いとう すけとも、1812年9月17日(文化9年8月12日)-1874年(明治7年)10月21日)は、日向飫肥藩の第13代藩主。父は第11代藩主・伊東祐民。母は浅野重晟の娘。正室は水野忠邦の娘。側室多数。子に祐帰、娘(間部詮実室)、娘(真田幸民室)。官位は従五位下、左京大夫・修理大夫。
文化9年(1812年)8月12日、江戸に生まれる。幼名は彦松。父の祐民は同年6月29日に死去していたため、父が死んだ後に生まれた。文化11年(1814年)、叔父の伊東祐丕が嗣子無くして死去したため、その跡を継いで藩主となる。藩政においては殖産興業政策、軍制改革、海防のための砲台建設、養蚕業の奨励や運輸業の改革、飫肥藩教学の確立などに努め、多くの成功を収めた。後にこの教学により郷校・明教堂が建設され、阿万豊蔵、落合双石など多くの人材を輩出している。明治期に入ると薩摩藩に従って新政府側に与し、戊辰戦争では二条城と甲府城の守備を務めた。
明治2年(1869年)の版籍奉還により藩知事となったが、同年7月23日に子の伊東祐帰に家督を譲って隠居した。明治7年(1874年)10月21日、63歳で死去した。
[編集] 殿のちょんまげを切る女
松竹によって2007年2月、劇化された。演出はラサール石井。
- タイトル:「殿のちょんまげを切る女」
- 演出:ラサール石井
- 劇場:新橋演舞場
- 伊東祐相役:中村勘三郎 (18代目)
他の出演:
上演当時の惹句
「黒船が来航する幕末、宮崎の小藩に実在した藩主・伊東祐相を中心に繰り広げる人情喜劇!殿のちょんまげの運命は果たして如何に!?どっと笑って、ほろりと泣いて、新橋演舞場でひと足早い「笑春」をお楽しみ下さい。」
あえて、史実と大幅に異なるストーリーとしている。伊東祐相は明治維新に伴い、武士を辞めて市井の人となっていた。しかし、県の圧政に苦しむ人民を救うため立ち上がり、県民の圧倒的支持を得て自らが知事になる… というものである。
[編集] そのまんま
ところで、伊東祐相の「日向の飫肥藩知事」という役職は、現在で言えば「宮崎県知事」にあたる。ともいえるが、実態は、複数の小県が分立した時期なので、宮崎県知事というのは、話題性のみに拘泥した表現だろう[要出典]。なぜここに「話題性」という全く唐突な言葉が登場したかというと、前月、その宮崎県知事に元タレントのそのまんま東が就任し、世間の注目が集まったからである。そして、その選挙戦は、まさに「殿のちょんまげを切る女」のストーリー通りに、県民の圧倒的支持を得たものであった。そのまんまが知事になった後で、このストーリーを書くことは誰にでもたやすいことだし、表層的な「話題性」のためにその手のあざとい策を凝らした例はいくらでもある。しかし、この劇は書き下ろしであり、そのまんま東勝利のはるか前に書かれたものである(日程的に、県知事選挙を考慮することは不可能であった)。すなわち、いっさい「話題性」を考慮されないで書かれたものだった。にもかかわらず、現実が劇を追随し、あたかもストーリーをなぞるかのように同じ展開を見せたのだった。偶然の一致とするには、あまりにも劇的に過ぎる出来事であった。
そのまんま東宮崎県知事は、2月11日、新橋演舞場に赴き、ラサール石井・中村勘三郎らを表敬訪問した。勘三郎は「一生懸命やっていただきたい」と知事を激励した。この日の公演でも、アドリブでセリフを入れ替え、知事に敬意を表した。藤山直美が中村勘三郎に知事就任を促すセリフを「そのまんまで知事に」など。
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