伊東義益
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伊東 義益(いとう よします、天文15年(1546年) - 永禄12年(1569年))は日向伊東氏十一代当主。伊東義祐の次男。虎房丸。左京大夫。
兄が早世したため後継者に定められ、都於郡城主となって義祐の後見を受けた。 智勇に優れた人物で、その上温厚な性格であったため父以上に家臣団、民衆から慕われたという。家督相続後も、当主として引き続き都於郡にあり、佐土原の義祐との二頭政治が行われた。
1569年、都於郡の岩崎稲荷に参籠中、病にかかって死去。都於郡城中のすべての者が剃髪して菩提を弔うという異例の葬儀が行われた。
妻は一条房基の娘で、この妻との間に伊東義賢・祐勝の2人と、さらに娘1人(伊東祐兵正室、阿虎の方)を儲けた。他に側室がいたという話も伝わるが、伊東氏の系図には記載なく詳細は不明である。