佐土原城
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佐土原城(さどわらじょう)は現在の宮崎県宮崎市にある城。江戸時代は佐土原藩島津氏の居城となった。国指定史跡。
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[編集] 概要
14世紀半ばごろに伊東氏の一族田島休助によって田島城(たじまじょう)として建てられた。
1427年頃、田島氏は日向国に勢力を伸ばしてきた伊東氏から城を追われ、伊東祐賀が入城。佐土原氏を名乗る(このころから通称として佐土原城とよばれだした)。 さらに1480年に伊東本家筋から伊東祐国が佐土原氏の養子に入り、正式に伊東氏が田島城(佐土原城)を支配。伊東48城の一つに位置づけられた。
1536年に焼失。(1542年~1543年)に、田島城(佐土原城)の跡地に新しく鶴松城(かくしょうじょう)として建てられた(通称は佐土原城)。
その後伊東氏は島津義久に敗れ豊後に逃れ、義久の実弟島津家久が城主として入った。(高城の合戦)
1587年に豊臣秀吉が九州に進行、島津義久は秀吉の傘下に入る。その直後に家久は急死(死因については諸説ある)、息子島津豊久が城主となる。
1600年の関ヶ原の戦いで島津家は西軍に参加。島津豊久は戦死し、徳川家康の家臣、庄田三太夫が一時的に預かるという形になったが、その後1603年に島津以久が3万石を領して入封、以後明治まで領した。
1625年に二代藩主島津忠興の代に、山の上の建物を壊して、麓にある二の丸に館を移した。この際に正式名称が松鶴城(しょうかくじょう)となる(通称は佐土原城)。
1870年に広瀬に移転したため、全て破壊された。広瀬の城も廃藩置県のため未完のまま取り壊された。
[編集] 天守
江戸時代に書かれたと思われる佐土原城の屏風には二の丸とおぼしき場所に立派な鯱を持つ3階建ての櫓がある。「南九州には天守のある城は無い」「天守は本丸にある」というのが常識であったため、この屏風の真偽が疑われていたが、平成9年(1995年)の発掘で天守台跡と金箔張りの瓦が見つかり、佐土原城には天守に当たる物があったことが確実となった。
島津忠興が佐土原藩政庁を城の麓に移したときに廃棄された。
天守は、伊東義祐が城を整備した頃に作られたと言う説もあるが、豊臣政権下の島津豊久の時代であるという説も、徳川政権下の佐土原藩の時代ではないかという説もあり、今後の出土物の調査や文献の発見に期待がかけられている。 現在の天守台跡からは伊東時代の瓦や、それよりも新しい時代の瓦が混在して出土しており、真偽ははっきりしていない。
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