伊東義祐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊東 義祐(いとう よしすけ、永正9年(1512年) - 天正13年8月5日(1585年8月29日))は伊東氏十代当主。本姓は藤原氏。家系は藤原氏南家の血筋にて 工藤氏の流れを汲む。伊東尹祐の次男。名は初め祐清。後に義祐と改める。幼名は虎熊丸。官位は従三位修理大夫、大膳大夫。1549年、出家して三位入道照眼と称した。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 家督相続から日向国最大版図の形勢
1533年、祐清(義祐)の兄である伊東祐充が若死にし、重臣長倉能登守らは祐清の弟の伊東祐吉を擁立する。祐清はこの措置を不満として一時出家したが、三年後には祐吉が病死したため還俗、その後を継いで家督を相続することとなった。このとき、一部の家臣による反乱があったが、義祐はそれを押さえた上で当主となった。
翌1537年に従四位下に叙せられ、将軍足利義晴の偏諱を賜り、以後「義祐」と名乗る。1546年には従三位に叙せられ、1549年には嫡男の病死を契機に再び出家。以後は「三位入道」と呼ばれた(従三位叙任の時期には異説あり)。 義祐は武勇に優れた人物で、北原氏を滅ぼし、島津忠親(豊州島津氏三代)と日向南部の権益をめぐって争い、1569年には飫肥の一帯を手に入れた。こうして島津氏を圧倒し、日向国内に四十八の支城を構えた義祐は、伊東氏の最盛期を築き上げた。
[編集] 伊東崩れと没落
勢い盛んな義祐は、それをいいことに次第に奢侈と京風文化に溺れるようになり、本拠である飫肥は「九州の小京都」とまで呼ばれるほど発展していくが、義祐の武将としての覇気は失われてゆくようになる。そして1572年、相良義陽と連携して島津氏の飯野城を攻めた際に、伊東側は3000の軍勢がありながら、島津義弘率いるわずか300の寡兵に大敗(木崎原の戦い)。五人の大将を初め、伊東家の名だたる武将の多くが討死してしまった。
この大敗を契機として、義祐の勢力は次第に衰退してゆく。まず、木崎原の戦いから4年後の1576年には、伊東四十八城の一つである高原城が島津義久に攻められて一戦も交えず降伏。さらに近隣の三ツ山城と須木城も続いて投降した。これによって島津氏領との境界線である野尻と青井岳が逼迫の事態に陥った。野尻城主・福永丹波守は何度も義祐に事態打開を訴え出たものの、直参家臣によって訴えはもみ潰されてしまった。義祐の家臣団は、境界の実情を知っていながらも、義祐の栄華驕慢の日々を諫止することが出来なかったのである。これは義祐がうるさい事を言う家臣は遠ざけ、自分に都合のいい家臣だけを側近にしていたためであった。
翌1577年に入り情勢はますます悪化する。6月には、南の守りの要である櫛間城が島津忠長によって攻め落とされた。義祐は飫肥城主である三男・祐兵に櫛間への出兵を命じたものの、逆に忠長に反撃され、飫肥本城に敗走。敵に飫肥城を包囲されてしまった。また同じ頃、日向北部の国人・土持氏が突如門川領への攻撃を開始したため、伊東家は北は土持、南と北西からは島津氏の侵攻を受けることになったのである。
さらに同年12月、野尻城主・福永丹波守が、島津方である高原城主・上原長門守の説得を受け入れ、島津方に寝返ってしまった。福永氏は伊東氏とは姻戚関係にあった為、この謀反は義祐は勿論、他氏族への大きな衝撃になった。これを知った内山城主の野村刑部少輔、紙屋城主・米良主税助も島津方に寝返った為、佐土原の西の守りは完全に島津氏の手中に収められてしまったのである。さすがの義祐も事態の深刻さを受け止め、12月8日、領内諸将を動員してまず紙屋城奪回の兵を出した。ところが、途中で背後から伊東家譜代臣の謀反の動きを察知。即座に反転して佐土原に帰城した。
翌12月9日、佐土原城で事態打開の評定が開かれた。南の島津方は飫肥を越え、佐土原へ攻め寄せるのは必至な状況で、籠城して島津軍を迎撃する声はなかった。同日、城を包囲されて逃亡してきた祐兵も佐土原城に帰着。もはや義祐には残された選択肢はなかった。同日正午過ぎ、義祐は日向を捨て、親戚筋である豊後の大友宗麟を頼る決断を下したのであった。
本拠である佐土原を捨て、豊後を目指す義祐一行の進路上に、新納院財部城主・落合藤九郎も島津氏に迎合して挙兵した報せが入った。落合氏は伊東氏が日向に下向する以前からの重臣で譜代の筆頭格であった。落合藤九郎の裏切りにより、義祐は財部に入るのを諦め、西に迂回し米良山中を経て、高千穂を通って豊後に抜けるルートを通ることにした。女子供を連れての逃避行はかなり辛く苦しく、当初120~150名程度だった一行は、途中崖から落ちた者や、足が動かなくなって自決したものなどが後を絶たず、豊後に着いた時はわずか80名に足らずになっていたという。
その中には後に天正遣欧少年使節の一人である伊東マンショの幼い姿もあった。
[編集] 最期
豊後に帰着した義祐は大友宗麟と会見し、日向攻めの助力を請うた。宗麟はその願いを受け、1578年に門川の土持氏を攻め滅ぼし、耳川で島津氏と激突(耳川の戦い)。しかし大友氏は島津氏に大敗したのである。大友氏の大敗は、居候同然の義祐一行への風当たりに繋がり、義祐は子の祐兵を連れ、伊予に渡って河野氏を頼った。
その後、祐兵が羽柴秀吉の家臣の一人として扶持を頂くことが出来、義祐も秀吉への謁見をすすめられたが「流浪の身たりとも、藤原三位入道が何ぞ羽柴氏に追従せむ」と答え、頑なに謁見を固辞。その後は各地を流浪して、最終的には1585年病衰して堺港へ行く途中、便船から港近くの砂浜に棄てられ、意識を失ったまま死亡。行き倒れ同然の状態で地元民に発見されたという。享年75。
[編集] 人物
若い頃から仏門に入っていたため仏教への造詣は深く、ある時期には政治を顧みずに僧侶と終日法談に明け暮れたほどであった。その道中記や、晩年の述懐などからは温和で覇気のない人物が想像されるが、その一方で、非常にヒステリックで好戦的な振る舞いもまた史料に現れているところであり、武将として、また僧侶としての硬軟二面性を必要以上に併せ持っていたのだといえる。
義祐の栄華の終焉となった木崎原の戦いは、その戦況が逆転する構図から「九州の桶狭間」とも呼ばれているが、義祐には「九州の今川義元」との異名がある。 その功績を考えれば決して無能な武将ではなかったが、文芸に溺れ、公家のような生活をしていたことが命取りとなったというべきであろう。