伊集院忠棟
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伊集院忠棟(いじゅういんただむね、天文10年(1541年)? - 慶長4年3月9日(1599年4月4日))は島津氏の家臣。伊集院忠倉の子。子に忠真。幸侃と号す。
早くから島津義久に仕え、筆頭家老として島津氏の政務を取り仕切った。内政だけでなく武人としても有能で、肥後や筑前などの出兵で、多大な功績を挙げている。歌道にも優れ、細川藤孝と親交があり、豊臣秀吉の九州出兵以前から、秀吉と和睦の交渉を進めていたという。
天正15年(1587年)、秀吉率いる大軍の前に島津軍が次第に劣勢となると、忠棟は抗戦を主張する義久や島津義弘に降伏を説くとともに、自身は剃髪して自らを人質として秀吉に降伏、石田三成と戦後処理にあたった。この忠棟のおかげもあって、島津氏は存続することができたとも言えるのである。しかしこのため、豊臣政権に不満を持っていた島津氏の家臣たちから疎まれる存在ともなった。また、三成らとともに太閤検地を領内で行った際は主導的な役割を務め、所領の配置替えを積極的に推し進めたため、元々の在郷領主は先祖伝来の土地を離れなければならず、忠棟は家中から多くの恨みを買ったという。
秀吉は忠棟の能力を高く評価し、伊集院氏に島津氏と同等の待遇を与えるとともに、文禄4年(1595年)には北郷氏に代わり日向諸県郡庄内の地に8万石の所領を与えられ、権勢を誇るようになった。このため島津宗家からも危険視されるようになり、秀吉没後の慶長4年(1599年)、朝鮮出兵から帰還した島津忠恒によって山城伏見の屋敷に招かれたところを殺害されたのである。彼の死後、嫡男の忠真が家督を継ぎ領地の日向都城に籠り庄内の乱を引き起こした。徳川家康の仲介によって和睦、島津家に帰参したが、慶長7年(1602年)に一族ともども忠恒によって誅された。なお、薩摩藩の人物記録には忠棟は「家臣」ではなく「国賊」と記されている。