佃十成
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佃 十成(つくだ かずなり、天文22年3月15日(1553年4月27日) - 寛永11年3月2日(1634年3月30日))は安土桃山時代から江戸時代前期にかけての戦国武将である。通称は次郎兵衛尉。
[編集] 経歴
三河国加茂郡猿投(現在の愛知県豊田市)の生まれ。父は土豪の岩松玄蕃丞と伝わる。初め織田信長麾下、のちに徳川家康家臣。天正13年(1585年)に些細なことから争いを起こして国を追われ、摂津国西成郡佃に蟄居。この際に名を「佃十成」と改めた。
その後加藤嘉明から請われて家臣となり、九州征伐、小田原征伐、文禄・慶長の役に従軍し功を立て、家老に取り立てられる。関ヶ原の戦いの際には、本戦に出陣した主君嘉明の留守居として領地の伊予松前城に残り、毛利氏らの支援を受けて蜂起した河野氏の旧臣らの軍勢を策をもって撃退(後述の「三津刈屋口の戦い」を参照)その名を知らしめ、この戦功によって伊予国浮穴郡久万山に6000石の所領を与えられた。松山城の築城では縄張りを担当し、加藤家の重臣として北郭に壮麗な屋敷を構えていたという。
[編集] 三津刈屋口の戦い
関ヶ原の戦いの混乱に乗じて伊予国での領土切り取りを謀った毛利氏は、現地でお家再興を狙う河野氏の旧臣や瀬戸内の海賊衆に働きかけて蜂起させた。安芸国竹原から出陣した数百艘におよぶ舟の将は能島水軍の村上元吉、因島水軍の村上吉忠ら豊臣秀吉の定めた海賊禁止令によって活動の場を失った海賊たちで、伊予国三津浜(現在の愛媛県松山市古三津)に上陸すると、現地の河野氏旧臣の平岡直房らと合流し正木城(松前城)へ迫った。
これに対して守将の加藤嘉明の弟加藤忠明や足立重信、佃十成らは女子供を城内より逃がしたいと偽って猶予を求める間に城下の民衆を使って、さも毛利氏の侵攻を歓迎するかのような流言を行い、また宇和島城主藤堂高虎に援軍を求める使者を密かに出した。こうして油断しきって三津刈屋口に布陣していた敵陣に一気呵成に夜襲をかけ、あたり一面に火をかけると数で勝るはずの毛利軍はたちまち瓦解し、村上元吉をはじめほとんどの諸将を失ってしまう。
その後も毛利軍は諸城に立てこもって抵抗を続けるものの、勢いに乗った加藤軍に各個撃破された。この敗北により、河野氏のお家再興の望みは完全に絶たれ、海賊衆は活躍の場を完全に失うことなり、毛利氏は吉川広家らの画策した本領安堵の約束を反故にされる遠因ともなった。
なお、この一連の戦いには様々な文献や資料によって「刈屋畑の合戦」「三津浜夜襲」「竹原崩れ」など、多くの呼称が伝わっている。