住友財閥
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住友財閥(すみともざいばつ)は、日本の四大財閥の1つ。400年以上の歴史を持ち、ロスチャイルド財閥を超える世界最古の財閥と言われている。
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[編集] 始祖・家祖・業祖の3人がいる財閥のルーツ
世界財閥家系のなかでも、最も古い歴史を持つといわれる住友家だが、住友家の先祖は平家一門といわれ、桓武天皇の曾孫・高望王の二十二代目に備中守忠重が現れ、「住友姓」を称し、室町将軍に仕えたとされている。いわば、この武家である住友忠重が「始祖」ということになるのだが、住友家には、家祖と業祖と2つの創業者が存在する。家祖といわれるのは、忠重から数えて八世にあたる住友政友で、この人が武士(丸岡藩士)から僧侶となり、そののち還俗して京都で書籍と薬を商う「富士屋」を開き、商家・住友家を興した。業祖といわれるのは、政友の姉婿にあたる蘇我理右衛門で、この人は南蛮吹きといわれる銅精練の技術を開発し、天正十八年(1590年)京都に銅吹所を設けた。のちにこの銅吹所が住友家の家業となったので理右衛門を業祖と崇めた。政友には一男一女があり、一男・政以は父の商売「富士屋」を継ぎ、一女は政友の姉婿にあたる理右衛門の長男・理兵衛友以を養子に迎え、ここで「家祖」と「業祖」が結合する。しかも理右衛門の妻は政友の姉であるという密接な関係だったが、この代でさらに両家の血が結合したことから、住友二代目は友以が継いだ。以後、住友家は代々「泉屋」の商号で銅銀商を営むことになる。(現在の三井住友銀行事務センター(大阪市中央区島之内1丁目)が「住友銅吹き所跡」である。)この友以は先見の明があり、商売を大きくするには京都では狭すぎると大坂へ進出。ちょうど徳川時代に入るころで、商業の中心になりつつあった大坂で銅吹業のほか貿易まで商い、すでに豪商として大いに繁盛させた。これが住友財閥の起源である。そのあとを継いだ友以の五男・友信は吉左衛門と名乗り、秋田の阿仁銅山、備中の吉岡銅山などの経営に乗り出し幕府御用の銅山師となって日本一の銅鉱業者へと発展させる。一方で友以の末子の友貞は両替商を大坂と江戸で開始している。これが寛文二年(1662年)のころで住友家は江戸時代前期において鉱業と金融業を握るコンツェルンを確立した。ちなみに三井家が江戸に進出し「越後屋呉服店」を開いたのは延宝元年(1673年)で住友家より10年おくれてのことである。 幕府御用達となった友信以来、住友家当主は代々吉左衛門を名乗ることになるが、なんといっても住友財閥の大躍進の基となったのは、二代目吉左衛門友芳が元禄四年(1691年)に開発した愛媛県の別子銅山によってである。この別子銅山は昭和48年に閉山されるまで、282年間にわたり銅を産出し続け、住友のドル箱となった。その功績を称えた住友家では、この友芳を「中興の祖」としている。
[編集] 明治
友以・友信・友芳の三代を通じて江戸期の住友家は興隆期を迎えるが、やがて明治維新を迎えるとき、一大危機に遭遇する。幕府の保護を受けていたことから住友は朝敵とみなされ、家業の別子銅山を官軍に接収されそうになる。それを支配人の広瀬宰平の才覚と奔走により切り抜け、以後、別子銅山の近代化につとめ、これを中心として三井・三菱にならぶ重化学工業主体のコンツェルンに築きあげた。明治以降の住友の経営は、広瀬をはじめとする大番頭(総理事)にまかされ、以後、伊庭貞剛(第2代総理事)、鈴木馬左也(第3代総理事)といった名総理事に恵まれ、銀行、倉庫、保険など多方面に進出し、その一方で住友家当主は、持ち株会社住友合名、住友本社の代表となり、「君臨すれども統治せず」といった経営分離の方式を貫き、次第に経営の中心からは身を引いて財閥統合のための象徴的存在へと変わっていった。
- 1877年(明治10年) 広瀬宰平が住友家総理代人となる。
- 1882年(明治15年) 19款196条からなる住友家法が定められた。
- 1891年(明治24年) 家法と家憲が分離され、「営業要旨」として家法の冒頭に二つの条文に分けて掲げられた。
- 第1条 我営業ハ信用ヲ重ジ、確実ヲ旨トシ、以テ 一家ノ鞏固隆盛ヲ期ス
- 第2条 我営業ハ時勢ノ変遷、理財ノ得失ヲ計リ、 弛張興廃スルコトアルベシト雖モ、苟モ 浮利ニ趨リ、軽進スベカラズ
- 1894年(明治27年) 広瀬宰平が総理事を退任。伊庭貞剛が住友の諸事業を主宰。
- 1900年(明治33年) 伊庭貞剛が第2代住友合資会社総理事に就任。
- 1904年(明治37年) 鈴木馬左也が第3代住友合資会社総理事に就任。
- 1922年(大正11年) 中田錦吉が第4代住友合資会社総理事に就任。
- 1925年(大正14年) 湯川寛吉が第5代住友合資会社総理事に就任。
- 1928年(昭和3年) 住友本店を合資会社に改組。
- 1930年(昭和5年) 小倉正恒が第6代住友合資会社総理事に就任。
- 1937年(昭和12年) 株式会社化
- 1941年(昭和16年)古田俊之助が第7代住友合資会社総理事に就任。
- 1946年(昭和21年)古田俊之助が住友合資会社総理事を退任。
[編集] 現在(財閥解体後~2007年現在)
住友グループとして再結集されたが、グループの中核・住友銀行が三井グループの中核銀行(さくら銀行)と合併して三井住友銀行が誕生したことに伴い金融面では三井住友フィナンシャルグループが誕生し、他業種でも住友系と三井系の企業の合併や業務提携が相次いだ。 もっとも、旧住友財閥系の企業からなる住友グループは2007年時点でも健在である。また、住友の本流を受け継いでいるのは住友不動産である。
[編集] かつて、旧財閥系列の系譜をくんでいた主要企業
- ヤマハ(旧:日本楽器製造→日本楽器(ヤマハ))
- 関西電力
- 山陽電気鉄道(阪神電気鉄道翼下)
- ダイビル(旧:大阪建物、商船三井(旧大阪商船→大阪商船三井船舶)系列)
- NEOMAX(旧:住友特殊金属)→ 現親会社の日立金属への吸収合併決定で近く解散予定
- 小倉興産(アドバンテッジ・パートナーズ傘下を経てアパマンショップグループへ)
- 昭和精機工業(旧ヤンマーディーゼル系→アーク系)