何日君再来
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『何日君再来(ピン音: Hérì jūn zàilái:ホーリィチュンツァイライ:何日君再來)』は、1937年に上海で製作された映画『三星伴月』の挿入歌。当時の人気歌手周璇が歌い、空前のヒットとなった。また1939年に香港で製作された映画『孤島天堂』の挿入歌にもなり、黎莉莉が歌いヒットした。なお、日本語での曲名は『いつの日君帰る』となっている。
[編集] 作詞・作曲者について
『何日君再来』の作詞者及び作曲者については、作詞者/作曲者を(沈華/不明)と記しているもの、(晏如/貝林)と記しているもの、逆に(貝林/晏如)と記しているもの、双方不明としているものなど諸説があり、はっきりしない。同曲の作詞・作曲者が誰なのかについて関係者の証言を綿密に追ったノンフィクションである、『何日君再来物語』(中薗英助著、河出書房新社)では、複数の関係者の証言から、作詞は1930年代に上海で活躍したシナリオライターで、映画『三星伴月』のシナリオも担当した黄嘉謨が、また作曲は当時上海国立音楽専科学校の学生で、後に北京芸術師範学院(中国音楽学院の前身)の教授となった劉雪庵がそれぞれ(貝林/晏如)というペンネームを用いて担当したと結論づけている。ただし、『何日君再来物語』の中では、関係者の間でも作詞者、作曲者を巡って証言に食い違いがあること、また劉雪庵本人が作詞・作曲ともに自分が担当したと証言している(劉雪庵は中薗が同書執筆中に亡くなり、証言の真偽を確かめることはできなかった)点についても言及している。
『何日君再来』は、周璇が歌ったものが有名だが、彼女以外にも、黎莉莉、潘迪華、奚秀蘭、胡美芳、渡辺はま子、李香蘭(山口淑子)など、数多くの歌手に歌われており、CHAGE and ASKAが大規模なアジアツアーを行った際にも歌われた。また近年では鄧麗君(テレサ・テン)が同曲を歌い、中国大陸や台湾など中国語圏でリバイバルブームを引き起こした。
[編集] 中国現代史の中の『何日君再来』
『何日君再来』は、数多くの歌手にカバーされ、長年多くの人に親しまれた歌謡曲であるが、作者の思いとは全く離れたところで時の権力者達のさまざまな政治的思惑によって翻弄され、幾度となく禁止されるなど、数奇な運命をたどってきた歌謡曲としての面もある。
まず、『何日君再来』が流行した当時、中国当局の中にはこの歌を中国人の日本への徹底抗戦意識の減殺、植民地支配への寄与を目的として日本軍が意図的に流行させた「亡国の歌」であると見る者がおり、同様の目的で当時日本軍によって流布されていた他の中国語歌謡曲とともに『何日君再来』を排斥しようとする動きがあったことが指摘されている。また、おそらくこのことと関係するものと思われるが、『何日君再来』の作曲を担当した劉雪庵は、中国共産党政権の時代となってから「右派」のレッテルを貼られて教授職の剥奪、農村下放などを経験しており、死後も完全に名誉回復されることがなかった。
一方、日本軍の間では『何日君再来』の「君」の中国語の発音が「軍」のそれと同じことから、抗日戦に敗れ重慶に撤退した「君(=蔣介石)」に向かって「いつ帰ってくるのか」と呼びかける、いわば抗日的な性格を持った歌であると解釈され、やはり『何日君再来』を排斥しようとした。さらに時代を下って「光復」後の台湾に目を向けると、外来政権である中国国民党政府の圧政に苦しむ本省人が植民地統治時代を懐かしみ、終戦後去っていった日本人に向かって『いつ帰ってくるのか』と呼びかけた歌であるとして、国民党政府が同歌を禁止していた時期がある(平野久美子 著『テレサ・テンが見た夢』晶文社 参照)。
さらに、1980年に中国大陸でテレサ・テンが歌った『何日君再来』が爆発的なヒットをした後、1982年に同歌は中国大陸当局の手により「エロな歌曲で、半封建、半植民地の奇形的産物」である「黄色歌曲」とされ、民衆の精神汚染を防ぐという理由から一時輸入、販売、放送などが禁じられた。これに関して、上述の平野著『テレサ・テンの見た夢』では、「黄色歌曲」に該当するというのは表向きの理由で、実際は国民生活が豊かになり、繁栄する台湾から流れてくる歌から民衆の目をそらすことが真の目的であったとすること、また、歌う側のテレサ・テンにとっても、『何日君再来』は中国共産党が倒れた後の、民主的統一中国の実現を想起して歌っていたものであるといった見方が紹介されている。
[編集] 関連文献
- 中薗英助著『何日君再来物語』河出書房新社、1993年、ISBN 4309403751
- 平野久美子著『テレサ・テンが見た夢』晶文社、1996年 ISBN 4794962525