元嘉暦
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元嘉暦(げんかれき)とは中国暦の一つで、かつて中国・日本などで使われていた太陰太陽暦の暦法。
中国・南北朝時代の宋の天文学者・何承天が編纂した暦法である。中国では南朝の宋・済・梁の諸王朝で、元嘉二十二年(445年)から天監八年(509年)までの65年間用いられた。
19年に7閏月を置き、 1太陽年を日(≒365.2467日)、1朔望月を日(≒29.530585日)とする。
何承天は、景初暦の冬至が後漢四分暦の観測値に従っていたため、実際の冬至より3日もずれいていることを指摘し、天体観測のやり直しを行っている。また朔日の決定に月の遅速を考慮した定朔法を用いようとしたが反対が多く採用はしなかった。
日本には朝鮮半島の百済を通じて6世紀頃に伝えられた。当初は百済から渡来した暦博士が暦を編纂していたか、百済の暦をそのまま使用していたと考えられる。推古天皇十年(602年)に百済から学僧・観勒が暦本などを携えて来日し、帰化人系の子弟らにこれらを学習させた。平安時代の書物『政事要略』には、推古天皇十二年正月朔日に初めて日本人の手によって作られた暦の頒布を行ったとの記述があり、これは元嘉暦によるものであったと考えられる。
持統天皇六年(692年)から(持統天皇四年(690年)からとの説もある)、中国から輸入した新しい暦である儀鳳暦を試用するため元嘉暦との並用を始め、5年後の文武天皇元年(697年)からは元嘉暦を廃して儀鳳暦を正式に採用することとなった。
2003年2月26日、飛鳥時代の迎賓館跡とされる奈良県明日香村の石神遺跡から、元嘉暦に基づく具注暦を記した木簡が発見され、検証の結果、これが持統天皇三年(689年)三月・四月のものであることが分かったと奈良文化財研究所が発表した。元嘉暦による暦の実物は中国にも残されておらず、大変貴重な資料である。
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