八鹿高校事件
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八鹿高校事件(ようかこうこうじけん)とは、1974年、11月22日、兵庫県八鹿町(現養父市)の八鹿高等学校で、集団下校しようとした教職員約60名(朝会参加者全員)が解放同盟及びその支援組織と衝突し、48名が負傷し29名が入院を要する重症、危篤1名で2ヶ月から1週間のけがを負った。それ以前から同様の衝突事件が起きており、一連の関係事件8件、被害者200名として多数の解放同盟員が起訴されており、それらを総称して、「八鹿・朝来事件」と呼ばれることもある。刑事裁判は被告人全員有罪(執行猶予付き)、八鹿高校事件に限った民事裁判は3000万円の損害賠償判決決着、兵庫県と糾弾に荷担した県教委も「被害者」全員へ謝罪し慰謝料を支払って決着した。
目次 |
[編集] 経過概略
但馬地方では、部落解放同盟支部が1973年に結成され、差別糾弾闘争が行われる一方、それを批判する動きも、共産党やその影響下にある勢力を中心に現れ、解放同盟の行動隊と民青部隊が数千人単位で衝突するなど、両者の対立が先鋭化していた。そのような状況下、八鹿高校の部落出身女生徒と交際をしていた男性の父親が部落出身を理由として交際に強く反対し、部落に対する差別的な内容の手紙を息子に何通も送っていた結婚差別事件が1974年1月、明るみに出た。それと前後して但馬地方の別の高校でも、女生徒が同じ理由で失恋し家出後に奈良で凍死するという事件(「生野女子生徒自殺事件」)が発生した。差別を受けた女生徒はそれらの課題に取り組もうとしなかった、学校の部活動であった部落問題研究会(部落研)に不満を持ち離脱、新しく解放同盟支部と連携した部落解放研究会(解放研)を結成し学校に部活としての公認を求めたのに対し、職員会議は承認せず、対立が始まった。当時の八鹿高校は、共産党員である教員がリーダー格であり、部落研は、部落問題に対して解放同盟の理論に服していなかったため、別勢力の影響が及んでくることを嫌ったものと見られる。解放研は曲折の末、校長が職権で公認し、教頭が暫定的に顧問となる異例の形で発足したが、教職員側はその取り消しを求めて座り込みをするなど、対立は解消されず、解放同盟と共産党双方が支持組織を動員し但馬全域を揺るがす大問題へと発展していった。
11月22日、解放同盟側及び民青部隊が睨み合いを続ける中、教師は城崎温泉で戦術会議を開き、「動員状況から危険」と判断し授業をせず下校することを決めた後に登校、授業をしないまま一斉休暇を取ると宣言し、解放同盟の指導下で解放研を認めるよう求めてハンガーストライキ決行中の生徒を置いて集団下校した。それに対し、連休に入る前に生徒やその父母との話し合いをさせようと焦燥感に駆られていた解放同盟や兵庫県教組本部、自治労など総評系労組を中心に結成されていた八鹿高校差別教育糾弾共闘会議側は、ピケット・ライン(ピケ)を張って制止した。教師たちはスクラムを組んで「行け、行けー」と叫びながら突進、ピケを突破しようとしたため両者の全面的な衝突となった。共闘会議側が、公道上を下校中の教師らを実力で校内に連れ戻し、体育館で『糾弾会』として自己批判書を書かせる事態に発展した。
下校した生徒たちは糾弾暴行事件発生を伝え救出を求める「町内デモ」を決行、暴行を受ける教師たちの救出を訴えた。事件後、共産党支持・不支持を超えて生徒を先頭に解放同盟に対する18,000人参加という大規模な町民抗議集会が行われ、大半の町民も集会に参加して教職員側を支持。 解放同盟員らが多数逮捕、但馬地方での一連の衝突事件と一括した形で起訴された。刑事裁判では一審、二審とも、解放研を認めなかった対応について「教職員たちの姿勢は生徒や父母の心情を考慮しない、党派的で差別的と見られる余地のあるもので、教育者として不適切」と解放同盟の立場に理解を示しながらも、「被害の程度は許容範囲を超えており、可罰的違法性は肯定できる」と判断し、被告全員に執行猶予付きの有罪判決を下した。1990年11月、最高裁の上告棄却により部落解放同盟のメンバー13名の有罪が確定し、それに続く1996年2月、暴行傷害犯人らに対する民事訴訟でも、3000万円の損害賠償請求が最高裁で確定し、集団暴行の根拠として解放同盟側が主張した糾弾権は全面否定された。また兵庫県と県教委も八鹿高校事件での「解同」に対する協力・荷担の責任を認め原告全員に慰謝料を支払うという和解に応じて裁判終結した。 (see解同の犯罪史)
[編集] 共産党・「被害者」側の主張
この事件の特徴的な点は報道機関の対応であり、また行政機関まで「糾弾会」と称する拉致監禁集団暴行の場に動員され、町の保健婦などが暴行現場に待機したとか、警察が暴行を放置したなどの事実があり、これらについて解同タブーに支配されていたことにあると共産党やその支持者は事件当時から主張している。 『赤旗』は間髪なくこの事件を全国に大々的に報道したが、主要な新聞はこの事件について黙殺。東京地方の3大紙では「毎日新聞」が数日遅れで記事を2段で小さく載せたのみであった。赤旗』は連日のように事件を大きく報じ、数種類の八鹿事件特集号外を全国配布、「女性教師に水をかけむりやり裸に」「逆さ吊りの拷問」などとの見出しも用いられた。国会でもTV全国中継下で事件についての質問を繰り返して全国に事件を知らせて教育現場での未曾有の集団暴力糾弾の世論を喚起し、関係機関に「適切」な対応を促した。
[編集] 加害側・解放同盟支持派の見解
事件後、解放同盟側から発表された「見解」や、解放同盟側に立った高杉晋吾『部落差別と八鹿高校』、兵庫解放教育研究会『凍った炎』などの文書によれば、
高教組組合員でもある教師たちは城崎温泉に宿泊しながら、兵庫高教組委員長(共産党員)や共産党参議院議員の指導を受けていた。教師たちが暴行されたとする「糾弾会」の最中、八鹿高校の教師から、「共産党は八鹿闘争を全党を挙げて取り組む。全国の天王山として背水の陣を敷いて臨む」「わなをかけて誘い込め。決戦する土俵が出来た」と記されたメモが発見され、また、衝突の直前、教室で教師が生徒に対して、「これから校庭で起きることをよく見ておけ」と発言していることもそこで指摘されている。『赤旗』記者をかなり以前から常駐させていたこと,11月22日の衝突前に、共産党系病院に教師を入院させる手はずを整えていることも明らかになっており、共産党側が、八鹿高校の解放研公認問題を解放同盟との一大決戦の場と位置づけ、周到な準備をしていた
と、八鹿高校の混乱の根本原因は共産党にあると主張している。
- 解放同盟側に立つ人たちの間では、解放同盟の「暴力」を告訴した共産党員教師が、後にそれが党員医師も加担した全くの捏ち上げであったことを告白し裁判で証言した吹田市立岸部小学校事件の例を挙げ、共産党側のいう「負傷」についてその通りには受け取れないとする考えが根強い[要出典]。ただし、部分的に暴力行為に及んだ同盟員がいたことは、解放同盟側の支持者も認めている。
当時、兵庫高教組の加盟団体であった日教組は事件後、本部見解を発表し、組合員らが傷害を受けたことを遺憾としながらも、生徒たちの要望に真摯に向き合おうとしなかったことについては教師として反省が必要とした。
また、この事件に取材した小説として、吉開那津子『希望』(ISBN 4406015469、ISBN 4406015531の全2巻)がある。解放同盟に属する青年を主人公とした作品である。
[編集] 参考項目
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