内臣
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内臣(うちつおみ)は、飛鳥時代から平安時代初めにかけて置かれた役職で律令政治下では令外官にあたった。歴史上4名が任命されているがいずれも藤原氏出身である。
一言で言い表せば、天皇の最高顧問で大臣に匹敵する官職であったがその職掌はその時々に応じて全く違うものであった。
最初である藤原鎌足(中臣鎌足)は645年乙巳の変で蘇我氏宗家が滅亡した後に任じられ、中大兄皇子を助けて文武百官の上に立って政治の中枢を担って大化の改新の遂行にあたった。乙巳の変の当時、鎌足の出身である中臣氏は朝廷の神祇を司っている名門の家柄ではあったが、政治的実績では蘇我氏や大伴氏・阿倍氏などと比較すると一段劣っており、制度上の臣下中最高位である左大臣・右大臣に中臣氏出身の鎌足を付ける事は古くから朝廷の政治に関って来た豪族の反感を買う可能性があった。そこで特別に「内臣」という役職を設けて、鎌足が政権中枢に参画できるようにしたのである。
2人目は鎌足から見れば孫にあたる藤原北家の初代・藤原房前である。721年、元明上皇が重態に陥ると、孫である皇太子・首皇子(後の聖武天皇)の後見役を期待されて任命された。
3人目は鎌足から見れば曾孫、房前の甥にあたる藤原式家の藤原良継である。771年左大臣であった藤原永手が病死すると、良継が藤原一族の中心となって光仁天皇を補佐する立場に立ったものの、良継は過去に兄である藤原広嗣の反乱による連座と自らが大伴家持らと企てた藤原仲麻呂暗殺計画によって2度官職を剥奪された事もあって出世が大幅に遅れ、中納言でしかなかった。そこで光仁天皇は良継を大納言を経ずして任命資格のない内臣に任じて大臣と同格扱い(この時「職掌は大納言と同じとし、待遇は大臣に准じる」という規則が定められた)として、名実ともに政府の中枢に置いたのである。6年後、その功績に報いるために内臣を内大臣と改め、正式に令外官による大臣職となった。
最後は光仁天皇の側近で房前の5男にあたる藤原魚名である。778年前年に死去した内大臣良継の死を受けて任命されたもののその実は側近重用人事であり、任命後一月も経たずに「忠臣」と改称され、翌年には魚名もまた内大臣に任命される事になった。これを最後に内大臣という官職が定着する事になり、内臣はかつての政治的重要性を失って自然消滅することになった。