内藤信民
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内藤 信民(ないとう のぶたみ、嘉永3年(1850年) - 慶応4年7月11日(1868年8月28日))は、越後国村上藩の第8代藩主。信濃岩村田藩主・内藤正縄の五男。官位は従五位下、豊前守。幼名は千代松。初名は正民という。
万延元年(1860年)5月2日に遠縁に当たる越後村上藩主・内藤信思の養嗣子となる。元治元年(1864年)4月26日、養父・信思が隠居したため、その後を継いで藩主となった。幕末期の動乱の中では終始、佐幕派として行動し、長州征伐(第2次)においても功績を挙げている。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では旧幕府側として参戦した。一時期は善戦したが、長岡藩が新政府軍によって破られ、村上藩が危機的状況に陥ると、失意に暮れて7月11日(異説として7月16日)深夜、城内にて自殺した。享年19。墓所:新潟県村上市本町の光徳寺。
信民には嗣子がなかったため、後に信思の養嗣子・内藤信美が後を継いだ。また、信民が自殺したことで村上藩は大混乱となり、家老である佐幕派の鳥居三十郎が主導権を把握した。その結果、彼の死から1ヵ月後の8月11日に村上城は新政府軍によって落城している。
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