劉勝
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劉勝(りゅうしょう、 生年不詳 - 紀元前113年)は、前漢の皇族・諸侯王。第六代皇帝景帝の第八子(『通称三国志演義』では第七子)。生母は賈貴人、同母兄に趙の敬粛王・劉彭祖がいる。武帝の異母兄に当たる。諡号は靖王。
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[編集] 略要・人物
[編集] 生涯
紀元前154年、父帝から中山王(河北省全体)に封じられる。そして、蜀漢の劉備の遠祖として有名な人物ともいわれる。また、劉勝は酒好きで女好きでもあったので、淫色に耽った王として有名だった。そのために、子は劉貞を含めて50人以上もおり、孫も併せて120人以上を儲けたという。
ある時に、同母兄の劉彭祖は実弟に対して「お前は俺と母を同じくする弟だが、諸侯王でありがら、淫楽に耽って王の役目を果してない。どうしてお前が前漢の藩王の身分と申せようぞ」と辛辣に弟を批評した。
しかし、劉勝も兄に対抗して「兄上こそ、諸侯王でありながら何故、酷吏のようなやり方をしてるのですか?毎日、盗賊を捕らえて処刑を繰り返す生活を送って楽しいですか?また兄上は法律を厳格にして夜更けまで体を酷使してるようですが、それも楽しいですか?王たるものは享楽や道楽を楽しむべきですよ」と兄の痛い箇所を衝いていたという。このように劉勝と兄の劉彭祖は同腹の兄弟でありながら、相互に性格は異なっていたのである。
しかし、劉勝は淫乱な生活が祟ったのか在位42年で、紀元前113年に病没したという。嫡子の劉昌(哀王)が、その後を継いだ。
なお、1986年に河北省保定市満城県(満城鎮)で、劉勝と王妃の竇氏の棺が発掘された。両人の遺体を包む金縷・銀縷玉衣と、その他の遺品が発見されているという。
[編集] その子孫
劉勝は子沢山で、孫も含めて120人以上の子を儲けている。そのために、約三百年後の後漢末の時代には、中山王の末裔は中山国を初め、涿郡や常山郡などに拡がっていたと思われる。蜀漢の劉備もその中の一人で、おそらく劉勝の多くの子孫同様に家が没落して庶民に等しく零落した家柄の出身と思われる。それだけに、劉備らが漢の皇室に連なる宗族としての存在は、あまり価値はないと思われる。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
- 竇綰(竇皇后の姪孫)
[編集] 子
- 臨邑亭侯・劉沢(燕刺王・劉旦と謀反を起こした劉長の父)
- 哀王・劉昌
- 広望節侯・劉忠
- 将梁殤侯・劉朝平
- 薪館殤侯・劉未央
- 陸成亭侯・劉貞(または涿鹿亭侯、『通俗三国志演義』では陸城公、劉備の遠祖)
- 薪処殤侯・劉嘉
- 臨楽敦侯・劉光
- 東野戴侯・劉章
- 高平殤侯・劉喜
- 広川殤侯・劉頗
- 乗丘節侯・劉将夜
- 高丘哀侯・劉破胡
- 柳宿夷侯・劉蓋
- 戎丘殤侯・劉譲
- 樊輿節侯・劉脩
- 曲成殤侯・劉万歳
- 安敦于侯・劉伝富
- 安険殤侯・劉応
- 安道殤侯・劉恢
- 澎厲侯・劉屈氂(前漢の丞相、彼の嗣子の妻は弐師将軍・李広利の娘)
- その他多数