劉貞
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劉貞(りゅうてい、生没年不詳)は、前漢の皇族。第六代皇帝・景帝の孫で、孫も含む120人以上の子沢山だった中山靖王・劉勝の年長の庶子である。家系は劉氏。蜀漢の劉備の直接の先祖という。封号は陸成亭侯。
[編集] 略要
[編集] 生涯
『史記』や『漢書』と『後漢書』によると、彼は紀元前117年に叔父の武帝から涿(たく)郡涿県(河北省張家口市涿鹿県(涿鹿鎮))の列侯に封じられる(爵位は定説では陸成亭侯だが、現在の涿鹿県にあるために、または「涿鹿亭侯」ともいわれる。さらに、『三国志演義』では“陸城公”とされ、その子孫が転封を繰り返す感じの列侯になっているが、もちろん演義の創作である)。
彼に関しては詳しくは記されていないが、紀元前113年に父が病死し、翌年の年始(正月)に、彼が参内した時に皇族のみに課された漢朝への上納金を納めなかった過度で、叔父の武帝の怒りを買い、厳重な罰として侯の地位を召し上げられてしまったという。劉貞は庶人に落とされて、封地の涿に豪族として代々住居していたという。だがそのために、劉貞の系図が記録に残されておらず、現在のところは劉備が劉貞の子孫という検証とその系図の関連は確認できない状況である。但し、以降の劉備の家系は歴史専門研究学者の事実に基づく幾度かの検証の積み重ねの成果と、まだ発掘されてない当時の記録書が発掘されることを願うことにかかっている。