加藤一二三
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加藤 一二三(かとう ひふみ、1940年1月1日 - )は、日本の将棋棋士。棋士番号64。福岡県嘉穂郡稲築村(現・嘉麻市)出身。剱持松二八段門下(元々南口繁一九段門下だったが、師匠を逆破門し、荒巻三之九段門下となる。剱持は代師匠)。
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[編集] 人物
- 史上最年少で棋士になったのみならず、史上最年少でA級棋士となり、さらには史上最年少で名人挑戦者となったため、「神武以来の天才」と呼ばれた。一時「加藤一二三四段」となり、漢数字の並びが話題となった。
- プロ棋士となって50年を超え、現役最古参の棋士である。
- クリスチャンであり、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世から聖シルベストロ教皇騎士団勲章を授与されている。
- 半世紀にわたる棋士人生を通して居飛車党を貫き、数々の定跡の発展に貢献してきた。特に大山康晴との対振り飛車戦の経験を生かして作り上げた居飛車舟囲い急戦の各種の定跡は加藤の創案が多い。また、矢倉▲3七銀戦法や、中飛車に対する袖飛車からの急戦は「加藤流」と呼ばれ、多くの棋士が採用している。また、対三間飛車急戦にも、加藤の創案した仕掛けが多い。しかし何と言っても有名なのは「加藤の棒銀」であろう。居飛車穴熊全盛の現代において、なお、加藤は四間飛車に対して棒銀で挑み続けている。その採用率の高さはプロ間で異彩を放っており、同一の型を追求し続ける姿は、若手棋士からは、畏敬の念と呆れを誘っている。居飛車党であっても、加藤に対しては棒銀対策を用意して振飛車に構える棋士も多い。但し中原誠はA級順位戦最終局にそれを行い、加藤の端攻めを絡めた見事な攻めの前に返り討ちにあい、A級を陥落している。また、角換わりにおいても棒銀の採用が多い。
- 基本的に振飛車には急戦で立ち向かうが、大山康晴にタイトル戦で挑戦した際に居飛車穴熊を採用したことが2回ほどある。また、意外に知られていないが、ひねり飛車や横歩取り3三桂のような空中戦も得意としている。
- 升田幸三を実質的な師匠と仰いでおり、升田もしばしば加藤の奇行を庇っていたという。加藤が名人になったとき、升田は「名人になるのが遅すぎた」とコメントしたという。また、加藤が弟子を取らないのは、升田からのアドバイスによるものだという。
- 昭和50年代のトップアマ棋士との駒落ち将棋では高い勝率を誇り、小池重明にも勝利している。金銀の使い方のうまさから下手泣かせとして知られた。
- 常に最善手を探すタイプのため、序盤から度々長考することが多く、終盤では持ち時間がなくなり、秒読みに追い込まれることが多いが、そこからがまた強く「秒読みの神様」の異名を持ち、NHK杯では優勝歴7回を誇る(本人はクリスチャンであることから、「神様」と呼ばれるのは抵抗があるようだ)。
- 最初の名人戦挑戦第6局において、大山は加藤の勝ち目のない将棋に止めを刺さずになぶり殺した。加藤は延々と勝ち目のない将棋を指させられたために、大山に苦手意識を植え付けられたらしい。
- ライバルの中原誠には最初は全く勝てなかった。その後タイトルを奪うなど苦手ではなくなったが、本人は特に苦手という意識はなかったという。
- 早稲田大学中退。
[編集] 加藤一二三伝説
その個性に基づいた数々の奇行でも知られ、「伝説」と呼ばれている。盤上没我の姿勢の現れとも言えるが、対局マナーが悪いとして気にする相手もいる。週刊誌FLASHや宝島社のVOWで取り上げられたこともある。
2006年5月より「BIGLOBEストリーム」の「将棋ニュースプラス」で「ザ・加藤一二三伝説」が配信されている。また、2007年刊行の著書『一二三の玉手箱』(毎日コミュニケーションズ刊)において、加藤自身が逸話のいくつかについて解説を加えている。
- ネクタイを畳に着きそうなくらい長く結ぶ。
- タイトル戦で「音がうるさい」と旅館の滝を止めさせたことがある。
- 波や車の音がうるさいと宿を変えてもらったことがある。しかし、クリスマスの賛美歌には文句を言わなかった。
- 対局時の出前で「鰻重」など気に入った食事を毎回長期に亘って昼夜連続で取り続ける。羽生善治曰く「加藤先生がメニューを変更されると大騒ぎになる」
- タイトル戦ではプレッシャーからか食事もほどほどになる棋士が多い中、加藤は「太って困る」というほどの健啖振りをみせる。
- 立会人を務める対局の際、控室の縁側に侵入した猫に「ハロー! 将棋に興味あるかい?」と質問した。
- 対局中、自駒も相手の駒もかまわずベタベタ触るため、対局相手が怒ったことがある。
- 対局場の盤、記録机の位置関係などを細かく気にし、人が見ていない間に動かしてしまうこともある。
- 対局中に席を外し、廊下で聖歌を歌う。
- 若手の検討中になぜ対振飛車には棒銀を行わないのかとたずねたところ、「急戦では勝率が悪い」との答えに対し、「急戦ではそうかもしれないが棒銀は違う」といった。もちろん一般的には棒銀は急戦の一種とされている。
- 自戦記で「キリスト教について」という内容を書く。
- 天井のテレビカメラを睨みつける。
- 対局中に突如対局相手の後ろに回り込み、相手側から盤面を見ようとする(反則ではないがマナーが悪い)。
- 先崎学によると先後同型のときも相手側から見ていたことがあったらしい。
- 対局中頻繁に大きな「空咳」をする、立てひざになってズボンをずり上げる。
- 記録係に、聞いたばかりなのに「(残り時間は)あと何分?」と何度も聞く。秒読みに追い込まれているにもかかわらず聞くこともある。
- 駒を何度も空打ちをしたり、気合を入れて強く打ち付けたりする。盤上の他の駒をはじきとばしたり、駒が割れたこともあるという。
- エアコンの音が気になるので消そうとしたら、間違えて部屋の照明を消した。
- 銀河戦の阿部隆戦で、終盤に桂馬を成らずで指したが、直後に成りに指し直してしまった。このときの勝負自体は加藤の勝ちだったが、後に「待った」の反則と認められた。ただし、すでに次戦で敗退していたため、結果の変更は行われなかった。処分として次期の銀河戦対局への参加が取り消された。(銀河戦の項参照)
- NHKの将棋番組の解説は口が思考を必死で追いかけてるかのような早口で、迷解説というか迷口調。後に将棋講座を担当したが、やはり早口は変わらなかった。司会者から全国中継で配慮を求められても変わらなかった。
[編集] 昇段履歴
- 1951年 3級
- 1952年 初段
- 1954年8月1日 四段
- 1955年4月1日 五段
- 1956年4月1日 六段
- 1957年4月1日 七段
- 1958年4月1日 八段
- 1973年11月3日 九段
[編集] 主な成績
(2005年09月20日現在)
- 竜王戦 - 4組(1組 - 4期)
- 順位戦 - B級2組(A級以上 - 36期)
[編集] 獲得タイトル
[編集] 一般棋戦の優勝歴
- NHK杯将棋トーナメント 7回(第10回・16回・21回・23回・26回・31回・43回)
- 早指し選手権戦 3回(第10回・15回・24回)
- JT将棋日本シリーズ 2回(第4回・8回)
- 天王戦 1回(第1回)
- 名将戦 1回(第9期)
- 高松宮賞争奪選手権戦 3回(第1回・9回・第11回)
- 日本一杯争奪戦 2回(第2回・4回)
- 六・五・四段戦 1回(第1回)
- 早指し王位決定戦 1回(第6回)
- その他 1回
[編集] 将棋大賞
- 第 4回(1976年度) 最多勝利賞・連勝賞・技能賞
- 第 5回(1977年度) 殊勲賞
- 第 6回(1978年度) 殊勲賞
- 第 8回(1980年度) 殊勲賞
- 第 9回(1981年度) 最優秀棋士賞・連勝賞
- 第12回(1984年度) 最多勝利賞・最多対局賞
- 第29回(2001年度) 東京将棋記者会賞
[編集] 記録(歴代1位のもの)
- 最年少プロ棋士 14歳3ヶ月
- 最年少A級 18歳
- 最年少名人挑戦 20歳
- 最年少A級陥落 21歳
- 最年少A級返り咲き 22歳(A級昇級記録全体で見ても3位)
- 最多A級昇級(降級) 5回
- A級順位戦最多勝利 149勝
- 通算最多敗戦 983敗(2006年3月30日現在)
- 順位戦でのデビューからの四期連続昇級(加藤の他には中原誠のみ)
- なお現役最多対戦2234戦、現役勝利数2位(1250勝、1位中原誠)でもある。