北与野デッキ
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北与野デッキ(きたよのデッキ、KITA-YONO Deck)は、埼玉県さいたま市中央区にある、JR東日本北与野駅とJR東日本さいたま新都心駅西口を結ぶペデストリアンデッキ群の総称である。
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[編集] 概要
北与野駅南口(東口)から、埼京線高架の南東側に沿って国道17号と東西大通りを横断し、高架線を離れて民間ビル(個人地権者所有地)2棟を通り抜け、西大通りを横断しさいたま新都心5街区(NTT東日本さいたま新都心ビル前)へ至る、高さ2階・幅約22メートル・距離340メートル、鋼箱桁橋とRCラーメンT桁橋など各建築物をつなぎ合わせて構成され、さいたま新都心のけやきひろばのデッキへ接続する。
北与野駅から、さいたま新都心駅の改札へは、徒歩でおよそ10分かかる。
ペデストリアンデッキ部分には幅3メートル程度の屋根が設けられており、雨の日でも傘を差さずに通行可能である。車椅子での通行も考慮し、さいたま新都心駅のデッキ上から段差がなく、北与野デッキ側にもエレベーターが2基設置されている。
北与野デッキ開通前は、高架沿い部分は民間駐車場などの敷地であったため通行ができず、近くの国道17号を横断し、埼京線高架北東沿いの公道か東西大通りを経て、けやきひろばへ向かうルートが通例であった。
2002年12月より、埼京線高架沿いのペデストリアンデッキ下でさいたま市営の駐輪場が運営されている。
2002年度、建築・環境デザイン部門でグッドデザイン賞を受賞している。
[編集] 開発の経緯
元々、さいたま新都心の当初の土地区画整理事業に含まれていたものではないが、開発過程において北与野駅がさいたま新都心西側の玄関口として見られるようになったことから、まず当時の与野市が独自に1998年度に予算計上し、その後与野市と都市基盤整備公団・大宮国道工事事務所などによって1999年11月頃に建設計画が策定された。
さいたま新都心街開き後の2000年6月に着工、2001年9月頃にペデストリアンデッキ下の歩道の通行が開始され、2002年4月にペデストリアンデッキ部分が完成した。
[編集] 北与野駅への影響
- 1999年に埼玉県は、北与野駅を「さいたま新都心第2の玄関」という位置づけのもと、快速列車(当初は通勤快速)を停車させるようにJR東日本に要請した事があるが実現には至っていない。
- 2000年4月より、さいたま新都心街開きに合わせて北与野駅発着の路線バスがさいたま新都心駅西口の交通センター発着へ延伸している。
- 北与野デッキ完成後は、さいたま新都心から北与野駅地区へ人が流れることを期待していた地元の商業者もいたが、実際には埼京線利用の通勤客などがさいたま新都心方面から来るようになった程度で、逆に北与野駅からさいたま新都心へ向かう利用者が比較的多くなり、自動車による来店が多いアルーサショッピングモールを除いて、北与野駅周辺の小売店では来店者が微減傾向となった所もある。
- また、さいたま新都心に公営宿泊施設が2軒開業した影響を受け、北与野駅前のシティホテル「アルーサ清水園」(1992年開業・旧与野市唯一のホテル)が2004年8月で閉鎖となった。それら公営宿泊施設は合同庁舎の歩行者デッキ沿いにあるため、北与野駅からも北与野デッキを経て地上に降りずに行くことができる。
- さらに、さいたまスーパーアリーナでのイベントが催された時は、ほとんどの来場者がさいたま新都心駅を利用するために改札口で入場制限をすることが多々あるが、北与野駅では滅多に起こらない。北与野駅の知名度の低さや埼京線の運行本数などの問題と、デッキ自体が夜は埼京線高架の影になり一部が上落合公園周辺の樹木に隠れ場所が分かり難い点などが原因と考えられる。
- 結果として北与野デッキは、さいたま新都心と北与野駅を連絡するという役割以上の波及効果をあまり出していない。
[編集] 関連項目
- さいたま新都心
- 大宮ほこすぎ橋
- NTT東日本さいたま新都心ビル(さいたまメディアウェーブ)