南部宗秀
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南部 宗秀(なんぶ むねひで、生没年不詳)は、戦国時代の武将、南部定秀の子。通称・下野守。武田氏の家臣、甲斐国南部城主という。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流 河内源氏の傍系 甲斐源氏の流れで南部氏の後胤にあたる。
鎌倉時代の武将・南部光行の12代目の後裔を称し、武田信虎・信玄に仕えていた。大永3年(1523年)小山城主の穴山信永を破り、小山城代となっている。天文17年(1548年)乱行を理由に甲斐国を追放され陸奥国会津まで流浪し、そこで餓死したという。
子は父の汚名に憚ったか改姓して河西満秀と名乗っている。満秀は甲斐国鏡中条を支配していたが、長篠の戦いで討死している。
[編集] 人物
前述の通り悪行が目立つ人物だったといわれる。『甲陽軍鑑』によると、ある日、家臣の石井藤三郎を成敗しようとするも取り逃がしてしまい、山本勘助の助けで石井を捕える。しかし自身の失態を棚に上げて手傷を負った勘助を非難し、信玄の不興を買ったという。
このエピソードから2007年NHK大河ドラマ・風林火山の登場人物・赤部下野守のモデルとなっている。赤部は武田家中で乱行が目立ち、悪行を働いていた所、流浪の身であった山本勘助に殺害されている。