叡福寺
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叡福寺 | |
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![]() 金堂 |
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所在地 | 大阪府南河内郡太子町太子2146 |
位置 | 北緯34度31分7.05秒 東経135度38分23.14秒 |
山号 | 磯長山(しながさん) |
宗派 | 真言宗系単立 |
本尊 | 聖如意輪観世音菩薩 |
創建年 | 神亀元年(724年) |
開基 | 聖武天皇 |
正式名 | |
別称 | 上の太子 |
札所等 | 新西国三十三箇所客番 聖徳太子霊跡6番 河内西国三十三箇所21番 |
文化財 | 多宝塔(国重文) 伝・聖徳太子墓 |
叡福寺(えいふくじ)は、大阪府南河内郡太子町にある仏教寺院。聖徳太子の墓所があることで知られている。山号は磯長(しなが)山、本尊は如意輪観音である。開基(創立者)は聖武天皇ともいい、聖徳太子または推古天皇ともいう。宗派は真言宗系の単立寺院で、太子宗を名乗る。また「中之太子」野中寺、「下之太子」大聖勝軍寺とともに三太子の一つに数えられ、「上之太子」と呼ばれている。
目次 |
[編集] 札所
- 新西国三十三箇所観音霊場客番
- 聖徳太子霊跡第6番
- 河内西国三十三箇所第21番
[編集] 起源と歴史
この寺にある叡福寺北古墳には、聖徳太子本人とその母・穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとこうごう、? - 621年)、太子の妃・膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ、? - 622年)が眠っているとされている。叡福寺の所在する磯長(しなが)は蘇我氏ゆかりの地であり、聖徳太子の父(用明天皇)と母はともに蘇我氏の血を引いていることから、この地に太子の墓があることはさほど不自然ではないと思われるが、被葬者がたしかに太子であるかどうかについては異説もある。なお、叡福寺近辺には敏達天皇、用明天皇、推古天皇、孝徳天皇の陵もある。
寺伝によれば、聖徳太子は生前、推古天皇28年(620年)にこの地を墓所と定めたという。推古天皇29年(621年)、穴穂部間人皇后が没するとここに葬られ、翌年、相次いで没した聖徳太子と妃の膳部菩岐々美郎女が追葬されたという。太子の没後、伯母にあたる推古天皇が土地建物を寄進し、墓守りの住む堂を建てたのが叡福寺の始まりとされている。約1世紀後の神亀元年(724年)、聖武天皇の発願で東院・西院の2つの伽藍を整備し、西院を叡福寺と称したというが、このことは正史には見えず、史実かどうか定かではない。叡福寺の創建年代については諸説あり、実際の創建は平安時代以降に下るとする見かたもある。
叡福寺は聖徳太子ゆかりの寺として、歴代の天皇や権力者に重んぜられた。平安時代には嵯峨天皇をはじめ多くの天皇が参拝しており、平清盛は子息の平重盛に命じて堂塔の修理をさせている。また、日本仏教の祖ともいうべき聖徳太子の墓所があることから、空海、親鸞、日蓮など新仏教の開祖となった僧たちもこの寺に参篭したことが知られている。寺は天正2年(1574年)の兵火で大きな被害を受け、古代の建物は残っていない。その後、慶長年間(17世紀初め)、後陽成天皇の勅願により豊臣秀頼が伽藍を再興した。
[編集] 伽藍
豊臣秀頼再建の聖霊殿(聖徳太子を祀る)と承応元年(1652年)建立の多宝塔が重要文化財に指定されている。他に金堂、南大門などがある。
[編集] 文化財
聖徳太子らの墓所とされる叡福寺北古墳は、宮内庁の陵墓に指定されているため近代的な学術調査はなされていない。そのため、ここを聖徳太子の墓所とするのは後世の仮託だとする説もある。古墳は直径50メートルほどの円墳で、横穴式石室をもち、内部には3基の棺が安置されているという。中央の石棺に穴穂部間人皇后が葬られ、東と西の乾漆製(麻布を漆で貼り固めたもの)の棺には東に聖徳太子、西に膳部菩岐々美郎女が葬られているとされている。
[編集] その他
南大門の南側には聖徳太子の3人の乳母を祀る西方院がある。 また聖徳廟と南大門の延長線上の南側にある南林寺は叡福寺の四季講堂であったといわれている。(南林寺パンフレットより)