日蓮
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基本教義 |
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三法印、四法印 |
諸行無常、諸法無我 |
涅槃寂静、一切皆苦 |
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日蓮(にちれん)(1222年3月30日(貞応元年2月16日))~(1282年11月21日(弘安5年10月13日))は、鎌倉時代の仏教の僧。法華経系諸教派が宗祖とする。 死後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈されている。
目次 |
生涯
- 1222年(貞応元年)2月16日、安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市、旧・安房郡天津小湊町)の小湊で誕生。幼名は「善日麿」であったと伝えられている。父は三国大夫(貫名次郎(現静岡県袋井市貫名一族出自)重忠、母は梅菊とされている。日蓮本人は『本尊問答抄』で「海人が子なり」と述べており、実際には漁民の出身であったと考えられる(但し、誕生日は大石寺の記録にのみ存在する。他門もそれを引用している)。
- 1233年(天福元年)に清澄寺の道善を師として、入門する。
- 1238年(暦仁元年)に出家し、「是生房蓮長」の名を与えられた(是聖房とも)。
- 1240年(仁治元年)に比叡山へ遊学。また高野山でも勉学に勤しむ。その際全ての仏経典を読破し研鑽した結果、妙法蓮華経(法華経)こそが釈迦の本懐であるとの結論に至った。しかし、これを即座に言い始めても衆生を混乱させることを憂慮し、法華経勧持品に予証される末法出現の法華経の行者、上行菩薩の最誕との立場から、「南無妙法蓮華経」と唱えることを第一として弘教をはじめる。
- 1253年(建長5年)清澄寺に帰山し、3月28日には内々に両親および浄顕房・義浄房に対して折伏を行い、内証の上の宣言を行い、4月28日朝、昇ってくる太陽をはじめ宇宙法界に向かって「南無妙法蓮華経」の題目を唱え始め立宗宣言し、この日の正午、清澄寺の持仏堂で初転法輪を行った。
- 1254年(建長6年)に清澄寺を退出し、鎌倉に出て弘教を開始する。このころ日蓮と名のる。辻説法で「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」(「四箇格言」)などと他宗を不成仏の法として批判した。
- 1260年(文応元年)8月27日、実相寺の一切経蔵で著した立正安国論を前執権で幕府最高実力者の北条時頼に送る。この書は、地震・洪水・飢饉・疫病などの災害が起こる原因は、民衆や幕府が念仏・禅・真言・律などを信仰することにあるとし、仏教経典を根拠に、正法たる法華経を立てなければ自界叛逆難、他国侵逼難などの災いが起こると説かれている。安国論が建白されて40日後、批判に恨みを持っていた他宗の僧ら数千人により、松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされるも難を逃れる。その後、ふたたび布教をおこなう。ただし、「焼き討ち」というのは伝承の誤謬の可能性が高い。日蓮の記述には何処にも「焼き討ち」の言葉は無い。したがって、「夜襲」または「襲撃」とするのが正しいと思われる。
- 1261年(弘長1年)幕府によって伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)へ流罪。
- 1264年(文永1年)安房国小松原(現在の千葉県鴨川市)で念仏信仰者であった地頭・東条景信に襲われ、左腕の骨折と額を負傷し、門下の工藤吉隆と鏡忍房日隆を失う。(小松原法難)
- 1268年(文永5年)蒙古から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となる。
- 1271年(文永8年)平左衛門尉頼綱(所謂「平頼綱」あるいは「長崎頼綱」)により、幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、腰越龍ノ口刑場(現在の神奈川県藤沢市片瀬、龍口寺)にて処刑されかけるが、刀が段々に折れるという怪異が発生し中止された。(日蓮の「種種御振舞御書」には、「江の島のかたより月のごとく光たる物まりの様にて、辰巳の方より戌亥の方へ光渡る」と球電現象らしきことが起こったとされ、その結果、「太刀取・目くらみたおれ臥し・兵共おぢ怖れる」こととなったと伝わる)
- 1271年(文永8年)、評定の結果佐渡へ流される。流罪中の3年間に日蓮当身の大事という人本尊開顕の「開目抄」、法本尊開顕の「観心本尊抄」などを著述。このころ日蓮は、末法の時代に即した法華曼荼羅を完成させた。この法華曼荼羅が、後世の人々に多大な影響を与えることとなる。
- 1274年(文永11年)春に赦免となり、すぐに幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれるが、日蓮は「よも今年はすごし候はじ」(「撰時抄」)と答え、同時に法華経を立てよという幕府に対する3度目の諌暁をおこなうが幕府は聞く耳をもたなかった。その後、最も信頼される日興の弟子であり、身延の地頭、波木井実長(清和源氏・甲斐源氏武田流)の領地に入山。身延山を寄進され身延山久遠寺を建立した。
- 1274年(文永11年)、蒙古襲来(文永の役)。予言してから5か月後であった。
- 1279年(弘安2年)10月、在家信徒・四条金吾への手紙「聖人御難事」の中で「清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年なり・仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う・其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし・余は二十七年なり・その間の大難は各々かつしろしめせり・云々」と記し、出世の本懐である「本門戒壇の大御本尊」を図顕した。(日蓮正宗のみの伝承)
- 1281年(弘安4年)兵力を増した蒙古軍が再び襲来(弘安の役)。
- 1282年(弘安5年)10月8日、日蓮は死を前に弟子の日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を後継者と定めた。この弟子達は、六老僧と呼ばれるようになる。
- 1282年(弘安5年)、武蔵国池上宗仲邸(現在の本行寺)にて10月13日辰の刻(午前8時ごろ)、61歳で死去。
死去の際、大地が震動し晩秋から初冬にかけての時期にもかかわらず桜の花が咲いたと伝えられている。 そのため、日蓮門下の諸派ではお会式の際に仏前に桜の造花を供える。
遺文
- 立正安国論(りっしょうあんこくろん)
- 開目抄(かいもくしょう)
- 如来滅後五五百歳始観心本尊抄(にょらいのめつご、ごごひゃくさいにはじむ、かんじんのほんぞんしょう)
- 撰時抄(せんじしょう)
- 報恩抄(ほうおんしょう)
- 唱法華題目抄(しょうほっけだいもくしょう)
- 法華取要抄(ほっけしゅようしょう)
- 四信五品抄(ししんごほんしょう)
- 下山御消息(しもやまごしょうそく)
- 本尊問答抄(ほんぞんもんどうしょう)
他四百余篇。
日蓮門下の諸派
日蓮門下における伝統宗教の系譜である。なお、新宗教は除いてある。
門流名と教義の一覧表
新宗教を含めた一覧