可児才蔵
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可児才蔵(かに さいぞう)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。
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時代 | 戦国時代から江戸時代前期 | |||
生誕 | 天文23年(1554年) | |||
死没 | 慶長18年(1613年) | |||
別名 | 吉長(別名) | |||
墓所 | 広島市東区東山町の才蔵寺 | |||
主君 | 斉藤龍興→柴田勝家→明智光秀→ 前田利家→織田信孝→豊臣秀次→ 佐々成政→福島正則 |
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氏族 | 可児氏 |
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 前半生
天文23年(1554年)、美濃可児郡で生まれる。宝蔵院流槍術の開祖、覚禅房胤栄に槍術を学んだとされ、槍の使い手であったという。
はじめ美濃の戦国大名・斉藤龍興に仕えたが、永禄10年(1567年)に斉藤家が織田信長の侵攻によって滅亡したため、信長の家臣・柴田勝家、明智光秀、前田利家らに仕えた(一説に森可成に仕えていた時期もあったとされる)。そしてこれらを経て信長の三男・織田信孝に仕えたが、天正11年(1583年)に信孝が羽柴秀吉(豊臣秀吉)の攻撃を受けて自害を余儀なくされたため、秀吉の甥である三好秀次(豊臣秀次)に仕えた。
しかし天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、秀次が徳川家康軍と戦い、大敗を喫すると、秀次と対立して秀次のもとを去って浪人になったとされる。その後、佐々成政に仕えたが、ここも長続きしなかった。
[編集] 福島正則の家臣
その後、伊予11万石の領主となった福島正則に仕え、750石の知行を与えられた。天正18年(1590年)の小田原征伐では、北条氏規が守備する韮山城攻撃に参加し、このとき先頭に自ら立って攻撃して氏規を震え上がらせたとされる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、福島軍の先鋒隊長として参加し、この戦いでも敵兵の首を17も取り、家康からも大いに賞賛された。この武功により、正則から500石を新たに知行として与えられた。
[編集] 最期
正則が関ヶ原の功績により、安芸広島藩に加増移封されると、それに従って広島に赴いた。
才蔵は若い頃から愛宕権現を厚く信仰していたため、「我は愛宕権現」の縁日に死ぬ」と予言していたとされる。その予言どおり、慶長18年(1613年)の愛宕権現の縁日の日、甲冑を着けて床机に腰掛けたままで死去してしまった。享年60。
[編集] 人物・逸話
- 主君を何度も転々と変えているが、同じ立場にある藤堂高虎に対しては非難の声が現在でも高いのに対し、才蔵の人気は当時からかなり高かった。当時、墓前を通る者は才蔵の武勇を賞賛し、その墓前で下馬して礼を送ったという。
- 笹の指物を背負って戦い、戦いにおいては敵の首を討つことが常に多くて、とても腰に抱えることができなかったため、指物の笹の葉をとって、首の切り口に入れておいた(あるいは口にくわえさせた)という。このため、才蔵の討った首と合戦の直後にすぐにわかったという。これらの経緯から、「笹の才蔵」と称された。
- 豊臣秀次が長久手の戦いで大敗したとき、才蔵は真っ先に逃げ、それを見た秀次が激怒して解雇したとされる。異説では、「この敵(徳川軍)に槍は通じない。くそくらえだ」と放言して秀次の怒りを買ったともされる。またそのほかにも、「意識無くそんなことをやったか」と述べて自分から浪人したともされる。
- 韮山城攻めのとき、北条氏規はその剛勇に感嘆し、「あの武将は誰か」と尋ねたという。
- 関ヶ原で東軍の先鋒は正則と決まっていたが、徳川家の井伊直政と松平忠吉が抜け駆けしようとした。このとき、才蔵はそれを咎めて引き止めようとしたが、直政にだまされて先鋒の座を盗まれてしまったとされる。
- 自分の部下を大切にし、特にその中に武勇に優れていた者がいれば、惜しみなく自らの禄を分け与えたという。
- 才蔵は武将というより、当時はその大名家の一兵士的な身分の人物であった。にも関わらず、現在までその名が高い理由は、関ヶ原の活躍で家康から大いに賞賛されたためとされる。
- あるとき、才蔵に対して試合を申し込む武者が現れた。すると才蔵は笹の指物を背中に指し、甲冑で身を固め、さらに部下10名に鉄砲を持たせて試合の場に現れたという。相手が、「これは実戦ではなく試合だ」というと、才蔵は「俺の試合は実戦が全てだ」と笑いながら答えたという。これは、才蔵がたとえ試合でも油断無く構えていたことを示していたものであるとされる。
- 晩年に老齢になってもその意気は少しも衰えず、常に馬を乗り回していたという。周囲の人々が「年齢を考えては」と言うと、「老衰するのは人による」と笑って答えたという。しかし老齢になるとさすがに重かったのか、長刀を部下に持たせて出かけることが多かったという。そのため、部下が「才蔵様も年をとられましたね」と言うと、部下から長刀をとって、その部下の首を打ち落としたという。