合志親為
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合志 親為(こうし ちかため、? - 天正13年(1585年))は戦国時代の武将。肥後の国人。赤星重隆の男。合志高久の養子となる。初め親賢。官途は伊勢守・蔵人大輔。宣頓と号す。肥後竹迫城主。
1550年、菊池義武に協力して豊後大友勢と戦う。1561年、相良・名和両氏の対立を仲裁。1578年、耳川の戦いで大友軍が大敗すると、これを支援して大友残兵の豊後帰還に協力。1580年、肥後に侵攻してきた島津氏と、これに与同する城親賢と久保田に戦って敗北。1581年、龍造寺氏が肥後に侵攻すると赤星・隈部らとともに起請文を提出して臣従。しかし島津氏が北上してくるとこれに通じ、1584年、龍造寺隆信の攻撃を受け、島津氏も救援軍を派遣したが間に合わず、家督を弟合志親重に譲って隠居することで龍造寺氏に降った。その翌月に沖田畷で隆信は戦死するのであるから歴史は皮肉なものである。1585年親重は去就を疑われ、竹迫城の明渡しを島津氏に求められた。親為は両者の間を奔走するが利なく、竹迫城は開城し、翌1586年に親重は薩摩大口において島津氏のために殺害されたという。親為は1585年、八代において病死した。
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