耳川の戦い
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耳川の戦い(みみがわのたたかい)とは1578年に大友宗麟軍と島津義久軍が日向高城川原を戦場として激突した合戦。「高城川の戦い」とも言う。
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[編集] 発端
1577年、日向の大名伊東義祐が島津氏に敗北。日向を追われ、友好関係にあった大友氏に身を寄せた。これをうけ翌年、大友宗麟は宿敵・島津氏と決着をつけるため五万の大軍を率いて日向への遠征を決定する。大友家内部では、宗麟の狂信的なキリスト教への没頭などから家臣団との間に不協和が生じていた。立花道雪らは開戦に時期尚早と強く反対していた。
[編集] 経緯
- 日向国の有力豪族の伊東義祐、島津氏に敗れ逃亡。大友宗麟を頼る。これが大友軍の日向進出の口実となる。
- 県城(宮崎県延岡市)に拠る土持親成、大友氏から離反、島津義久と結ぶ。
- 大友軍、土持親成が守る県城を攻略。(土持氏の滅亡)
- 島津中書家久、山田有信の守る新納院高城に入る。
- 大友軍、高城(宮崎県児湯郡木城町)を包囲。このとき、大友宗麟はカブラル神父らと共に現在の延岡市無鹿付近に留まる。
- 島津軍の先遣隊が小丸川の南の台地上に陣取る。
- 大友軍による兵糧攻め。
- 島津軍、河原之陳との内通を画策(後に内通成功)
- 11月11日、ゲリラ戦などで松山之陳を焼き討ちにする。
- 島津軍の本隊(島津義久隊)が11月12日根白坂上(陣之内)に到着。
- 両軍が木城町下鶴付近で合戦に及び、緒戦で島津方の北郷久盛討死。
- 戦況が拮抗しているところを老瀬坂上の陳から島津以久が東から突入。高城の篭城兵も西から突入し、戦況が決定的になる。
- 島津軍、耳川まで追撃戦を展開。数日来の大雨のため増水した耳川で多数の大友方将兵が水死。
[編集] 影響
[編集] 大友氏
この戦いを通じて、大友軍は直臣の佐伯惟教・田北鎮周や、筑後国人の蒲池鑑盛をはじめとする多くの重臣や幕下の有力武将を失った。さらに大友支配地内でも秋月種実(筑前国)の反抗や龍造寺隆信(肥前国)の謀反などをはじめとする有力国人たちの離反を招き、その勢力・領国を大きく削がれることとなった。
なお戦後、立花道雪は軍監を努めていた志賀親守の罪を糾弾している。
[編集] 島津氏
島津氏はこの大勝利後、さらに大友氏の本拠地豊後国へ侵攻を開始し一時は現在の大分市まで迫る。しかし宗麟の要請をうけた豊臣秀吉の介入によって退却を余儀なくされ、遂に秀吉に恭順することになる。
しかし一連の戦いによって九州内に同レベルの敵のいなくなった島津氏は、九州南部(薩摩・大隅)の支配を確固たるものとした。
[編集] 戦況
当初は大友軍が島津軍を兵力の差で押していたが、徐々に大友軍の兵士に疲労の色が見え始め、 また大友軍の追撃して長く伸びきっていた陣形をついてきた島津軍によって戦況は一転し、大友軍は敗走する。 また、大友軍のは3000人近い人数が戦死したが、これの大半は敗走後に急流の耳川を渡りきれず溺死した者や、 そこを突かれて島津軍の兵士に殺されたものだという。
[編集] その他
この戦い前での大友軍の軍議で、田北鎮周は交戦を主張していたが、大将の田原親賢は裏で島津軍との和睦交渉を 進めており、これに応じなかった。 が、田北親周はこれを不服とし、勝手に島津軍に攻撃を仕掛け、これを放置するわけにもいかない大友軍が やむなく島津軍と戦うことなり、交戦に至った。 また、大友軍の軍師・角隈石宗は血塊の雲が頭上を覆っている時は戦うべきでない、と主張するが 結局交戦に至り、やむなく秘伝の奥義書を焼いて敵中に突入し、戦死する。