同治帝
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同治帝(どうちてい、咸豊六年三月二十三日(1856年4月27日) - 同治十三年十二月五日(1875年1月12日) 在位1861年 - 1875年)は中国清朝の十代目皇帝。諱は載淳。廟号は穆宗(ぼくそう)。日本では在世時の元号の同治を取って同治帝と呼ばれる。
咸豊帝の長子として生まれる。母は西太后(慈禧太后)である。晩年の咸豊帝は西太后の権力志向を嫌っていたため一時遠ざけられるが、西太后らによって擁立される。
即位当初から東太后、西太后、叔父の恭親王による摂政で政治が進められ、同治帝在位中を通して実権は西太后に握られていた。
[編集] 在位中の出来事
1864年(同治三年)に14年に渡った太平天国の乱がようやく終結した。しかし乱を終結させたのは漢族の曽国藩・李鴻章らの個人の軍である湘軍・淮軍である。それまでの政治の最高機関である軍機処の影は薄くなり、軍隊を背後に持つ者が強い発言権を有するようになった。軍閥化の一歩手前と言っていいだろう。
西太后に信任された李鴻章により、政治と軍隊の洋化が進められ、対外政策にも柔軟な対応を見せ、漢族軍隊により捻軍の乱を終結させた。この時期に僅かながら清の国勢は復活し、同治中興と呼ばれる事もある。
1874年、西郷従道率いる日本軍が台湾(台湾出兵)を占拠した。
1875年、同治帝は19歳の若さで早世する。その死因は、天然痘ともお忍びで遊郭に出向いた際に罹患した梅毒とも言われる。なお清東陵に陵墓がある。
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