西郷従道
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西郷従道(さいごう じゅうどう、天保14年5月4日(1843年6月1日) - 1902年7月18日)は、日本の武士・薩摩藩士、政治家、軍人。元帥海軍大将従一位大勲位功一級侯爵。父は西郷吉兵衛、母は政子。兄弟に兄の西郷隆盛ほか。竜助。通称は信吾。本名は隆興、隆道。なお名前の読みとして、「つぐみち」が広く流布しているが、西郷家の子孫によると「じゅうどう」が正式の読みとされる。
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[編集] 略歴
薩摩藩鹿児島城下下加治屋町に生まれる。剣術は薬丸兼義に薬丸自顕流を、兵学は伊地知正治に合伝流を学んだ。有村俊斎の推薦で薩摩藩主島津斉彬に出仕し、茶坊主となる。後に還俗し、斉彬を信奉する精忠組に加入。薩英戦争、続いて戊辰戦争では鳥羽伏見の戦いなどに従軍。1869年、山県有朋と共に渡欧し軍制を調査。1874年に陸軍中将となり、同年の台湾出兵では番地事務都督として軍勢を指揮。
1873年には兄の隆盛が征韓論をめぐり下野。薩摩藩出身者の多くが従うが従道は政府に留まる。隆盛が1877年の西南戦争で敗死すると、代わって薩摩閥の重鎮となる。明治15年(1882)1月11日、黒田清隆が開拓長官を辞すると、参議・農商務卿兼務のまま開拓長官に任じられる。同年2月8日に開拓使が廃止されるまで、短期間ながら開拓使長官を務めた。1884年の華族令制定に伴い、維新時の偉功によって伯爵を授けられる。伊藤博文内閣の海軍大臣、内務大臣などを歴任。
1892年には元老として枢密顧問官に任じられる。同年、国民協会を設立。1894年に海軍大将となり、1895年には侯爵に陞爵。1898年に海軍軍人として初めて元帥の称号を受ける。
横浜に設けられた日本レース・倶楽部で日本人としてはじめて参加が認められた日本人最初の馬主で、1875年には愛馬ミカンに騎乗して日本人馬主による初勝利をあげた。そのときの風刺漫画が残っている。
[編集] エピソード
- 名は維新後に太政官に名を登録する際、「隆興」をリュウコウ(「隆道」でリュウドウとも)と呼んで口頭で登録しようとしたところ、宮内官に「ジュウドウ」と聞き取られ、「従道」となってしまった。本人も特に気にせず結局「従道」のままであった。
- 兄・隆盛や従弟・大山巌と同じく鷹揚で懐の深い人物であったとされるが、内務大臣在職中に起こった大津事件に際しては津田三蔵の死刑を主張し、児島惟謙を恫喝するなど強い圧力をかけた。
- 海軍大臣時代は山本権兵衛を抜擢して大いに腕を振るわせ、日本海軍を日清日露の戦勝に導いた。井上馨から海軍拡張案のことで尋ねられて、「実はわしもわからん。部下の山本ちゅうのがわかっとるからそいつを呼んで説明させよう」と言い、井上は山本の説明に納得した。
- 海相を退いた後、主力艦の手付金を払う必要が生じたが予算がない。山本海相から相談をうけた従道の答えは「それは予算を流用するしかない。もちろん大変なことだから万一の時は二人で二重橋の前で腹を切ろう」いうものであった。その軍艦は日露戦争で大活躍した。(→三笠)
- 首相候補に再三推されたが、兄隆盛が逆賊の汚名を受けたことを理由に断り続けた(大山巌も同様)。
- ある会議で某閣僚がわかりきったことを延々と述べて議論が行き詰まった際のこと。その閣僚が座ろうとした時に隣席の従道が椅子を引いたために尻餅をつき皆大笑い、これ以上議論をする空気でなくなってしまい、被害者も苦笑いの内に会議は無事まとまったという。
- 面影は兄隆盛に似ているとされ、肖像画を作成するときは彼の写真が参考にされた。
[編集] 家族・子孫
[編集] 系譜
従道━┳従理 ┣政子 ┣従徳━━━┳従吾━━━従節━┳従洋 ┣豊彦 ┣古河従純 ┗従英 ┣上村従義 ┣従竜 ┣従親 ┣従宏 ┣豊二 ┣古河従靖 ┣小松従志 ┗黒木従達 ┣栄子 ┣桜子 ┗不二子
[編集] 関連項目
西郷従道の主な役職歴
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