国体明徴声明
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国体明徴声明(こくたいめいちょうせいめい)は、1935年(昭和10年)に美濃部達吉の大日本帝国憲法を基礎とした法律学的主張であった天皇機関説に対し、これを排撃することで政治的主導権を握ろうとした一部国会議員・軍部・右翼諸団体が政府に迫って、天皇が統治権の主体であるとする宣言を出させたもので、8月3日と10月15日の2回にわたり行われ、同時期に美濃部の著書三冊を発禁にした。
昭和天皇自身も大日本帝国憲法体制における立憲君主として、国家体制の頂点の地位に天皇があることを認識しており、天皇機関説を排除する動きについては不満を持っていたが、海軍側からなだめられたため真意が伝えられなかったといわれている。こうして天皇機関説排斥が政友会による岡田啓介内閣の倒閣運動に使われたばかりか、軍部による政治的主導権奪取の手段として用いられた。
天皇機関説排除の完了後に出されたのが、以下のような国体明徴声明である。
「恭シク惟ミルニ我ガ国体ハ天孫降臨ノ際下シ賜ヘル御神勅二依リ昭示セラルル所ニシテ万世一系ノ天皇国ヲ統治シ給ヒ(中略)即チ大日本帝国統治ノ大権ハ儼トシテ天皇二属スルコト明ナリ、若シ夫レ統治権ガ天皇二存セスシテ天皇ハ之ヲ行使スル為ノ機関ナリト為スガゴトキハ是レ全ク万邦無比ナル我ガ国体ノ本義ヲ愆ルモノナリ…」
これにより天皇機関説は国体(政体)の本義に反すると断じたうえで、日本が天皇が統治する国家であると宣言した。しかしながら、昭和天皇自身が認識していたように、昭和の治世は天皇親政が為されていたわけではない。また、これ以後は軍部が天皇の名の下に軍部主導による戦争への道へ突き進むことになるが、その時の軍部は大日本国憲法11条の「統帥大権」を理由に他の介入を許さなかったのであり、天皇の名を最大限悪用し統治権を侵害したのは軍部および右翼であったといえる。
[編集] 参考文献
- 国体明徴問題に関する件 (陸軍省昭和11年密大日記第2冊) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C01004163700