美濃部達吉
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美濃部 達吉(みのべ たつきち、1873年5月7日 - 1948年5月23日)は、日本の男性憲法学者。勲一等旭日大綬章(1948年)。
[編集] 経歴
兵庫県加古郡高砂町(現・兵庫県高砂市)に漢方医・美濃部秀芳の次男としてうまれる。1897年、東京帝国大学卒業。帝大では天皇機関説を主唱した一木喜徳郎に師事する。内務省に勤務するが、1899年にドイツやフランス、イギリスに留学し、1900年に東京帝国大学助教授に就任する。後、1902年に同教授へ就任。東京帝大に先立ち東京商科大学(現一橋大学)でも講義をした。東京商大での弟子に田上穣治がいる。
1912年に発表した『憲法講話』で、天皇は国家の最高機関であるとするドイツのイェリネックが主唱した国家法人説に基づく天皇機関説を発表。穂積八束の後継者として東京帝国大学教授に就任し、天皇主権説を唱えた上杉慎吉との間に論争を展開した。この間、天皇機関説が学界・政界・官界の通説的地位を得、ほぼ国家公認の学説となる。
1930年、ロンドン海軍軍縮条約の批准に関連して、いわゆる統帥権干犯問題が起きた際には、兵力量の決定は統帥権の範囲外であるから、内閣の責任で決定するのが当然であるとして浜口雄幸内閣を支持した。また、1932年、いわゆる血盟団事件により井上準之介・前大蔵大臣が暗殺された際には、政府による右翼取締りの甘さを指摘した。同年、学士院代表の勅選議員として貴族院議員となる。
1934年、国体明徴運動が起こり、天皇機関説が排撃され始める。1935年、貴族院本会議において、菊池武夫議員により天皇機関説非難の演説が行われ、軍部・右翼による機関説・美濃部排撃が激化する。これに対し美濃部は、「一身上の弁明」と称される釈明演説を行う。然し、著書は発禁処分となり、不敬罪の疑いで検事局の取調べを受け(後、起訴猶予処分となる。)、貴族院議員を辞職する(天皇機関説事件)。この事件の渦中、政府による2度の国体明徴声明などを受け、天皇主権説が国定学説となった。なお、天皇主権説を唱えた上杉は5年前(1929年)に既に死亡している。1936年、天皇機関説事件に憤った右翼暴漢の襲撃を受け、重傷を負う。
第二次世界大戦後、憲法改正の気運が高まる中、内閣の憲法問題調査会顧問や枢密顧問官として憲法問題に関与した。然し、国民主権原理に基づく憲法改正は「国体変更」であるとして断固反対し、「オールド・リベラリストの限界」といわれた。国民主権原理に基づく日本国憲法が成立するに至り、天皇機関説は解釈学説としての使命を終えた。
美濃部は、憲法改正権力は憲法の根本規範を改正する権限を有しないとの理解を前提に、大日本帝国憲法と日本国憲法の連続性について懐疑的見解を示した。
多美子夫人は数学者・菊池大麓(箕作阮甫の孫)の長女。美濃部亮吉(元東京都知事)は長男。商工省・企画院官僚で知られる美濃部洋次は甥。