岡田啓介
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生年月日 | 1868年2月13日 (旧暦慶応4年1月20日) |
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出生地 | 越前国福井藩 |
出身校 | 海軍兵学校卒業。 |
学位・資格 | 海軍大将 |
前職 | 海軍大臣 |
世襲の有無 | 無 |
在任期間 | 1934年7月8日 - 1936年3月9日 |
選挙区 | |
当選回数 | |
所属(推薦)党派 | 超然内閣 (挙国一致内閣) |
没年月日 | 1952年(昭和27年)10月17日 |
岡田 啓介(おかだ けいすけ、慶応4年1月20日(1868年2月13日) - 昭和27年(1952年)10月17日)は、日本の軍人、政治家。海軍大将。第31代内閣総理大臣。
[編集] 来歴・人物
福井藩士 岡田喜藤太・はるの子として生まれる。旧制福井中学(のち福井県立藤島高等学校)を経て上京し、とりあえず上級学校進学の為に須田学舎や共立学校(のち開成高校)などの受験予備校に在籍ののち、学資の援助を受けていた関係でそれを心苦しいと感じ、上級学校進学の際、学費が掛からないところとして師範学校系か陸海軍系学校の受験を決意し、陸士受験に志望変更、陸士受験に必須であったドイツ語を学ぶ為、当時陸士の予備校であった陸軍有斐学校に入学した。結局は海軍兵学校に入校した。その後、海兵(第15期)を卒業。日清戦争・日露戦争に参加し、1923年には海軍次官、1924年連合艦隊司令長官、1932年には海軍大臣となる。ロンドン海軍軍縮会議の日本代表の一員として会議に臨みアメリカ・イギリスと条約締結、「軍拡による米英との戦争は避け、国力の充実に努めるべし」という主張を持っていた。日米開戦後は反東條英機内閣の立場に立ち、戦局悪化後には重臣として終戦工作にも奔走した。
元老西園寺公望の信任を得て、1934年に内閣総理大臣に任命され、組閣。一時、拓務大臣、逓信大臣も兼務。在任中に天皇機関説をめぐる国体明徴問題が起こり、岡田内閣倒閣を狙う陸軍の皇道派、箕田胸喜など平沼騏一郎周辺の国家主義勢力、立憲政友会などから攻撃される。
1936年の二・二六事件で襲撃を受ける。この際、岡田とたまたま容貌が似ていた義弟の松尾伝蔵予備役大佐が身代わりとなったが、娘婿で総理秘書官の迫水久常(大蔵官僚、後に参議院議員、経済企画庁長官、郵政大臣)の機転で岡田首相は難を逃れた。その際、共立学校時代の英語の先生にあたる大蔵大臣・高橋是清(第20代内閣総理大臣)は凶刃に倒れている。
[編集] 「狸」と呼ばれた男の生涯
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二・二六事件のとき、岡田は首相官邸の女中部屋の押入に隠れ、難を免れた。身代わりに義弟の松尾伝蔵大佐が殺された。岡田と松尾は血のつながりはなかったが、額から下の顔つきが似ていた。また、反乱軍の襲撃に対し、松尾自身が「いかにも私が岡田です」と応えたという証言もある。そのため反乱軍も、首相の暗殺に成功したと誤認したのだ。
岡田は最初と2度目の夫人に先立たれ、このときは独身だった。妹の夫・松尾と2人で首相官邸に住み込んだ。官邸では自分たちの食事も女中の食事も弁当でまかない、炊事は一切やらなかった。この当時、首相の月給は830円であった。岡田はそのうちの約半分、430円で一切の生活費をまかない、残りは首相の小遣いとなったという。
岡田は帝国海軍時代、艦隊勤務では最も厳しいといわれる水雷艇乗りだった。海軍水雷学校校長も務めている。だからこそ耐えられた官邸生活だった。岡田は、前任の斎藤実にくらべ政治力は弱く、古巣の海軍内でも強硬派を押さえきれず、ロンドン・ワシントン両海軍軍縮条約離脱に追い込まれた。それでも、軍部や右翼革新派は岡田政権には斎藤の息がかかっているとみて、ことごとにゆさぶりをかけた。
粘りが信条の斉藤に対して、岡田はおとぼけが得意だった。美濃部達吉博士の「天皇機関説」を攻撃した右派は、議会で岡田をとっちめた。「日本の国体をどう考えるか」と聞かれると、「憲法第1条に明らかであります」と繰り返した。「憲法第1条には何と書いてあるか」と聞かれると「それは第1条に書いてある通りであります」と、人を食った答弁で切り抜けた。岡田は、その強かさから「狸」とあだ名された。
ニ・ニ六事件で、前任の斉藤、片腕と頼む高橋是清蔵相、義弟の松尾を失い、岡田の受けたショックは大きかった。当時の状況から見て岡田に責任が無い事は明白であったが、頼りとしていた蔵相と身内を一挙に失った事に対し、強い自責の念に駆られていた。事件後、昭和天皇に拝謁したとき、岡田のあまりの傷心振りを見た天皇は、岡田が自決するのではないかと深く危惧したといわれている。一時は思いつめるところもあったようだが、岡田は生き延びる決心をした。以後の岡田はおとぼけで野党の追及をかわすだけでなく、身体を張って時局の展開を阻止しようとするようにもなった。
また岡田は、アメリカとの戦争を避けるため、海軍の後輩たちを動かそうとした。1943年(昭和18年)の正月には、戦争に勝ち目はないと見て、和平派の重臣たちと連絡を取り、東條内閣打倒の運動を行った。嶋田繁太郎海相の辞任をめぐって、東條と2人だけでやりあったこともあった。
1945年(昭和20年)2月、天皇は重臣を2人ずつ呼んで意見を聞いた。岡田は「終戦を考えねばならない段階」であると明言、「ただ、きっかけがむつかしい」とも述べた。天皇も、岡田と元内大臣牧野伸顕の意見が最も穏当だったと「昭和天皇独白録」の中で述べている。
終戦を決めた鈴木貫太郎内閣では、女婿の迫水久常が内閣書記官長の職にあった。岡田は迫水を通じて、終始鈴木に助言を行った。その働きぶりはすさまじく、「鈴木内閣即岡田内閣」と新聞が書いたほどだった。破局への流れは食い止められなかったものの、「和平」は岡田の執念となった。
1952年(昭和27年)4月28日、日本国との平和条約(通称、サンフランシスコ平和条約)が発効しGHQによる占領が終わり日本の主権回復を見届け安心したかの様に、同年10月17日自身の85年の生涯に幕を閉じた。
[編集] 著書
- 『岡田啓介回顧録』(毎日新聞社、1950年。中公文庫、1987年、2001年改版)
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第30代 斎藤実 |
第31代 1934 - 1936 |
第32代 広田弘毅 |
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