堀田正仲
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堀田 正仲(ほった まさなか)は、下総古河藩の第2代藩主。のちに出羽山形藩主を経て、陸奥福島藩の初代藩主となった。
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時代 | 江戸時代前期 | |||
生誕 | 寛文2年(1662年) | |||
死没 | 元禄7年7月6日(1694年8月26日) | |||
別名 | 左京(通称) | |||
諡号 | 常楽公 | |||
戒名 | 常楽院殿其阿法漢映性大居士 | |||
墓所 | 神奈川県藤沢市の清浄光寺 | |||
官位 | 従五位下、従四位下、下総守 | |||
藩 | 下総古河藩主→出羽山形藩主→ 陸奥福島藩主 |
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氏族 | 堀田氏 | |||
父母 | 父:堀田正俊、母:稲葉正則の娘 | |||
兄弟 | 堀田正仲、堀田正虎、堀田正高、 堀田正武 |
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妻 | 正室:池田綱政の娘 | |||
子 | 養子:堀田正虎 |
寛文2年(1662年)、当時は上野安中藩主で老中であった堀田正俊の長男として生まれる。堀田正虎は双子の弟に当たる。貞享元年(1684年)8月、父・正俊が稲葉正休に暗殺されると、大久保忠朝や阿部正武らと協力して正休を討った。そして10月、家督を継いで古河藩の第2代藩主となる。このとき、弟の堀田正虎に2万石を分与し(下野大宮藩)、堀田正高に1万石を分与し(下野佐野藩)たため、自らの所領は10万石となった。
貞享2年(1685年)6月、出羽山形藩に移封される。貞享3年(1686年)7月には陸奥福島藩に移封された。しかしこれらの移封は父が暗殺されたために行なわれた処罰的な移封であり、しかも福島藩は実質的に悪地が多くて石高が低かったため、藩財政が窮乏した。このため、正仲は家臣団のリストラをはじめ、年貢や運上金を厳しく取り立てる重税の措置を執る。さらに領民に対して特産物である絹織物に絹役、飯坂温泉をはじめとする領内の各温泉に湯投銭を課すなど、様々な重税を強いて領民を苦しめている。しかし第5代将軍・徳川綱吉からは寵愛され、「頗る功あり」とまで賞された。
元禄7年(1694年)7月6日に死去。享年33。後を双子の弟である堀田正虎が養子となって継いだ。
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