大永の五月崩れ
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大永の五月崩れ(たいえいのさつきくずれ)は、大永4年(1524年)5月に起こった尼子経久の伯耆進攻をいう。以前は鳥取県の歴史を知る上で重要な事件の1つであり、鳥取県史をはじめとする多くの郷土史関係の書籍がこのことを載せていたが、近年の研究によりこの事件の存在は否定されている。
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[編集] 従来の定説
山名方の米子城、淀江城、天万城、尾高城、不動ガ嶽城、八橋城は一朝にして攻め落とされ、更に倉吉、岩倉城、堤城、羽衣石城も順次落城し、伯耆一円が尼子領となる。
この合戦により国中で戦死する者数知れず、死者が町に満ち溢れ、村々の放火の煙が空を覆い、神社仏閣の殆どが兵火に焼かれたという。
[編集] 近年の研究の結果
[編集] 発端の原因
近年の研究によって以前、「大永の五月崩れ」と呼ばれた伯耆国の争乱の発端は文明3年(1471年)9月に起こった伯耆国守護の山名豊之の殺害事件による山名家内の分裂によるものとされている。これに国内の伯耆衆とよばれる南条氏、小鴨氏、行松氏、進氏などの有力国人層の台頭、反守護勢力に対する出雲国の尼子氏の介入という原因が加わり、伯耆はもとより美作国などの周辺諸国を巻き込む大きな争乱に発展してしまった。
[編集] 尼子氏の西伯耆進出
この争乱をきっかけにして尼子氏は本格的に伯耆国への進出を開始する。尼子氏は伯耆国西部(一般的には西伯耆と呼ばれるので本項でも以下、西伯耆と表記する)の日野郡の「日野衆」と呼ばれる領主層の懐柔を始める。この地方では砂鉄の採取が盛んで製鉄の技術も高く、尼子氏にとっては軍事力を高めるためにはのどから手が出るほど欲しい重要な地域であった。日野衆の懐柔に成功した尼子氏は直臣を送りこの地域を直轄領とした。この後、尼子氏は行松氏などの反尼子の国人の排除にも成功し、西伯耆においての支配基盤を強固なものとした。
[編集] 東伯耆への進出
西伯耆支配において成功した尼子氏は伯耆国東部(以下、東伯耆と表記する)への進出を開始するが思わぬ抵抗に遭うことになる。東伯耆は伯耆国の名門とされる南条・小鴨氏の南条一族の勢力の強い地域であり、そのため尼子氏は南条一族による激しい抵抗に遭うことになった。しかし、西伯耆を勢力下に入れた尼子氏の勢いは大きく、南条氏の本拠地である羽衣石城の落城により南条一族は因幡国、但馬国などへ逃げ、尼子氏による伯耆支配は一応完成したのである。
[編集] その後の情勢
前述より尼子氏の伯耆一円の支配は一応成功したに見える。また、追放した南条氏らの国人が、尼子方についていることが古文書により確認されており、追放した国人を傘下に引き入れることにも成功していることが分かっている。しかし、南条氏はまもなく毛利氏傘下の家臣として尼子攻めに参加していることも確認されており東伯耆の支配は西伯耆と違い脆弱であったことが推定される。伯耆国内の争乱は豊臣秀吉の時代に南条氏の東伯耆3郡支配が確定するまで続くことになる。
[編集] 総論
尼子氏の伯耆侵攻は前述のとおり、大永の五月崩れといわれるような尼子氏の軍勢が電撃作戦のように侵攻してきたものではなかったことが分かる。現在では尼子氏は永正~天文年間に段階的に進出し、勢力の拡大を行い伯耆一円の支配を完成させていったと考えられている。なお、この事件についての記述が細かく記載されている文献である「伯耆民談記」は江戸時代の書物であり時代が一致しない。おそらく、尼子氏の伯耆侵攻に関する話は人々に語り継がれていくうちにこのような話へと変化してしまったと推察される。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 『伯耆民談記』
- 鳥取県教育委員会 「鳥取県中世城館分布調査報告書 第2集(伯耆編)」 2004年3月
- 岡村吉彦氏執筆 「総論-戦国時代の伯耆地域における戦乱史」
カテゴリ: 日本の戦国時代の事件 | 鳥取県の歴史