大田原綱清
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大田原 綱清(おおたわら つなきよ、1538年(天文7年) - 1590年9月15日(天正18年8月17日))は、戦国時代の武将。下野国・那須氏の家臣。大田原資清の3男で、大関高増・福原資孝の弟。母は金丸氏。幼名は竹光丸。大田原晴清・大田原増清の父。「縄清」(読み方は同じ「つなきよ」)とも。
天文18年(1549年)の喜連川五月女坂の戦いで初陣して戦功を挙げたとされている。兄が二人いたが、長兄の大関高増は大関氏、次兄の福原資孝は福原氏へ養子として出たため、永禄3年(1560年)に父が死んだとき、大田原氏の家督を継ぐ事となった。しばしば、大関氏ら上那須衆と共に、主家那須氏と対立したが、永禄11年(1568年)に和睦が成立すると、那須七党大田原氏の当主として、宇都宮氏をはじめとする周辺勢力と戦い、主家を盛り立てた。天正13年(1585年)、主君那須資晴とともに薄葉ヶ原の戦いにて塩谷義綱・宇都宮国綱連合軍を打ち破った。同年暮れには資晴の許しを得て大関高増・福原資孝の兄2人と図り、千本資俊・資政父子を謀殺し、その遺領を三人で分割した。