大蔵永常
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大蔵 永常(おおくらながつね、明和5年(1768年) - 安政7年/万延元年(1860年?))は、江戸時代の農学者。宮崎安貞・佐藤信淵とともに江戸時代の三大農学者の一人。通称、亀太郎・徳兵衛・喜内。字は猛純。号は亀翁、愛知園主人、黄葉園主人。日田喜太夫とも称す。浜松興産方の頃には「金無し大先生」とあだ名がつけられたといわれる。 ちなみに、永常の名は、祖先が、古代から中世にかけて日田を統治していた日田大蔵氏ということにちなみ、代々、"永"の字を名乗る慣わしがあったことにて名乗ったとされている。
豊後国日田、現在の大分県日田市隈町二丁目に製蝋問屋㊂鍋屋に勤める職人伊助の子として生まれる。当主である祖父伝兵衛も綿屋と号す綿花を栽培する職人であった。初め父と同じ問屋で丁稚として働くが、20才前後に全国的に頻発した大飢饉をきっかけとして、民衆に役に立つ作物の栽培方法を学ぶため、九州諸国を転々とし、栽培、加工方法などを身につける。寛政8年(1796年)彼が29才の時、長崎より大阪に渡り、苗木商を営む。その傍ら初の著書である『農家益』を著し、その後も次々の同様の農業書を著す。出版を刊行していくにつれ、社会的地位が向上すると、次第に交友が豊かになっていき、この頃には大塩平八郎の縁故者を妻にもらっている。天保5年(1834年)には渡辺崋山の推挙により三河国田原藩の興産方という農業指導者の役職に就く。
[編集] 主要著書
- 『農家益』
- 『農具便利論』
- 『農家肥培論』
- 『農家益後編』
- 『豊稼録』
- 『除蝗録』
- 『油菜録』
- 『綿圃要務』
- 『広益国産考』
など