大関増徳
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大関 増徳(おおせき ますよし、天保10年9月19日(1839年10月25日) - 大正4年(1915年)1月27日)は、江戸時代の大名。下野国黒羽藩の第14代藩主。丹波国篠山藩の藩主青山忠良(老中)の五男。犬山藩の藩主成瀬正肥の弟にあたる。幼名は鉚之助。慶応3年(1867年)4月増式(ますつね)と改名。官位は従五位下能登守。明治維新後、従三位に昇進。
安政3年(1856年)4月19日養父増昭の死去により、末期養子として家督を相続した。同年4月25日将軍徳川家定に御目見する。安政4年(1857年)12月16日従五位下能登守に叙任する。万延元年(1860年)8月先々代藩主大関増儀の娘で正室であったお鉱と離婚する。これに対し、藩主による御家の乗っ取りであるとして家中に強い反発が生じる。文久元年(1861年)1月18日家老(益子右近・滝田典膳・村上左太夫・風野五兵衛)らにより、座敷牢に監禁される。以後、廃藩置県まで監禁される。同年10月9日幕府に隠居届を提出し、受理されて、養子増裕(実父西尾忠宝)に家督を譲る。家臣により、強制的に隠居させられたのである。大正4年(1915年)1月27日東京において死去、77歳、法号は本光院殿悟山増智大居士、墓所は栃木県大田原市(旧黒羽町)大関家菩提寺の大雄寺。
正室は大関増儀の娘お鉱であったが、離婚する。なお、お鉱は大関増裕と再婚する。また増徳は後に(早川)仲と結婚、嫡子は陸軍少将大関釥。
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