太田薫
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太田 薫(おおた かおる、男性、1912年1月1日 - 1998年9月14日)は、昭和期の労働運動家、元日本労働組合総評議会(総評)議長。元宇部興産課長。
岡山県生まれ。大阪帝国大学工学部応用化学科卒業。宇部窒素(現在の宇部興産)入社、終戦後、同社労組の初代組合長を振り出しに、1950年、合化労連を結成して総評に参加した。戦後の労働運動高揚期で勢力を増していた日本共産党の影響を排除し、日本社会党を中心とした労働運動の強化に力を注いだ。
1955年、岩井章が総評事務局長に就任すると同時に総評副議長となり、「太田-岩井ライン」と呼ばれる指導権を確立し、1958年から1966年まで総評議長を務める。この間、経済闘争に力点を置いた「春闘方式」を定着させる一方、1960年の日米安保闘争や三井三池闘争なども指導し、自由民主党政権の親米主義・資本主義政策、および社会党・総評ブロックの強硬路線や階級闘争主義を批判して結成された民主社会党(民社党)や全日本労働総同盟(同盟)と鋭く対決した。威勢の良い数々の発言は太田ラッパの愛称で親しまれた。一方、労資対立が激化した場面では総理大臣とのトップ交渉で事態を収拾する事もあり、資本主義体制の中で労働組合や労働者の権利を確保するための交渉も行える柔軟性も見せた。
太田は1965年にソビエト連邦からレーニン平和賞を受賞したように、日本の左派・革新勢力の重要人物として目された。しかし、社会党内の抗争に巻き込まれ、時には主役になった太田は、万年野党化した社会党の政権奪取の可能性を更に遠のかせた。
1979年の東京都知事選挙では、美濃部亮吉知事に続く社共共闘の候補者として立候補したが、自民党と民社党、それに公明党などが推した鈴木俊一に敗れ、革新都政の継承に失敗した。この際に太田は社会党を離党した。また、総評が1987年に同盟など全日本民間労働組合協議会(全民労協)を結成し、労働運動の統一を図ると、太田は岩井や市川誠元総評議長らと共に「共産党系の統一労組懇(その後の全国労働組合総連合(全労連))やその影響力が強い官公労の排除は、労働運動の統一にはつながらず、大資本に屈服する労働運動の右翼再編でしかない」と批判を浴びせた。そしてこの3人は総評を離脱し、1989年11月21日に全民労協を母体にした日本労働組合総連合会(連合)が発足すると、同年12月9日には3人が作った「労働研究センター」を母体にした全国労働組合連絡協議会(全労協)が結成され、社会党左派の支持を明確にした。しかし、全労協はかつての総評に比べて参加人数が大きく減り、太田の影響力も昔日の面影を失っていた。