如来
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基本教義 |
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縁起、四諦、八正道 |
三法印、四法印 |
諸行無常、諸法無我 |
涅槃寂静、一切皆苦 |
人物 |
釈迦、十大弟子、龍樹 |
如来・菩薩 |
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部派・宗派 |
原始仏教、上座部、大乗 |
地域別仏教 |
インドの仏教、日本の仏教 |
韓国の仏教 |
経典 |
聖地 |
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如来 (にょらい、(sanskrit) tathaagata तथागत。)「多陀阿伽陀」と音写。「真理からやってきたもの」という意味である。仏教においては釈迦のことを指し、さらに十号の一つとなった。大乗仏教では信仰の対象としての諸仏の尊称となっている。
日本では釈迦如来、密教の最高仏大日如来、西方極楽浄土に住む阿弥陀如来、東方浄瑠璃浄土に住む薬師如来の四如来が、最も尊崇されてきた。
目次 |
[編集] 真身如来
「如」は「真如」。真如の道に乗じ、因より果に来たって、正覚を成ずるから「如来」と名づける。
- 如来とは、如実の道に乗じ、来たりて正覚を成ずるが故に、如来という。(成実論1)
- 如実より来る。故に如来と名づく。…涅槃を如と名づけ、知解を来と名づく。正しく涅槃を覚するが故に如来と名づく。(転法輪論)
- 如実の道より来る。故に名づけて如来と為す。(大智度論 24)
[編集] 応身如来
真如の道に乗じ、三界に来たって化を垂れるゆえに「如来」と名づける。応身如来。
- 如来というは如を体し、しこうして来たる。故に如来と名づく。
問うていう。如を体ししこうして来るが故に如来と名づくとは、是れ応身なるや。来の義あるべし。真如法身、いかんが来あるや。
答えていう。本陰、今顕すが如く、また来と称するを得。(勝鬘宝窟上末)
諸仏のごとくにして来るゆえに「如来」と名づける。二身、三身に通じる。
- つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。また証大涅槃の願と名づくるなり。しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽なり。常楽はすなはちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなはちこれ無為法身なり。無為法身はすなはちこれ実相なり。実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種種の身を示し現じたまふなり。(教行信証証巻 聖典註釈版 p.307)
[編集] 如去
サンスクリット語で「suugata」(修伽陀)を「如去(にょこ)」あるいは「好去(こうこ)」と漢訳する。これは如実に生死を去るという意味。これによって、如来と如去は相対して、如去は向上自利であり、如来は向下利他である。この二つの言葉で仏の無住処涅槃を顕す。