安松京三
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安松 京三(やすまつ けいぞう、1908年 - 1983年)は、日本の昆虫学者。日本における天敵による害虫防除の草分け。
東京に生まれ、少年時代から昆虫をはじめ、さまざまな分野に対する興味を育んだ。このことが、どちらかというと変人が多いといわれる昆虫学者の中で、社会常識と国際感覚に富んだと評される安松の人格を育てたと言われている。1927年に旧制福岡高等学校(後の九州大学教養部)に入学。翌年、学内の昆虫の同好者を集めて「福岡高等学校 虫の会」と、その機関紙『むし』を創刊した。
1930年に九州帝国大学農学部に入学。昆虫学教室に所属し、1933年に卒業後もそこに留まって、ハチの分類やナナフシ、ノミの研究などを行った。1945年に提出して農学博士を取得した学位論文は、ナナフシの成長解析に関する研究をまとめたものであった。
第二次世界大戦中は、ミクロネシア(1940年)や中華民国山西省(1942年)などの海外における昆虫相調査に従事して成果を挙げ、1942年に九州帝国大学農学部昆虫学教室助教授に就任した。
1945年、終戦間際に農学部植物園のゲッケイジュの枝より採集したルビーロウカイガラムシから、このカイガラムシを抑制する効果の高い寄生蜂を発見したことが、安松にとっての大きな転機となった。後に安松らによって Anicetus beneficus Ishii & Yasumatsu, 1954 (ルビーアカヤドリコバチ)と命名されたこの新種のハチは、柑橘類の大害虫であったルビーロウカイガラムシを数年間で日本国内の主要なミカン産地から駆逐し、日本における害虫の生物的防除の先駆例となった。この研究は、1953年に日本農学賞、1959年には朝日賞の受賞につながり、これ以降、安松の研究は天敵による害虫防除に軸足を移していった。
1949年に勤務校の九州帝国大学が新制の九州大学に改組。1958年に、恩師で永く農学部昆虫学教室の教授を勤めた江崎悌三が死去すると、安松が跡を継いで教授に就任した。1964年には農学部に生物的防除研究施設を創設。この施設は2005年現在でも生物的防除専門に教育研究を行う、アジアで唯一の機関として活動を続けている。安松の天敵研究は、1970年に著作『天敵-生物制御へのアプローチ』に集大成された。
1971年に九州大学を定年退官後は、1980年までFAOやJICAから東南アジア諸国に派遣されて、天敵による害虫防除の指導を行った。
[編集] 参考文献
- 小西正泰 (1993) 虫・人・本-41 安松京三. インセクタリゥム 30: 173