安藤師季
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安藤 師季(あんどう もろすえ、生没年不詳)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての陸奥国の武将。幼名を犬法師、初名を高季、安藤五郎太郎、安藤又太郎と称した。父は蝦夷大乱の一方の当事者であると思われる安藤宗季と伝えられる。弟は家季、子は法季と伝わる。本姓は安倍。最初国府方に後に北朝方に組みした。
米良文書によると安藤又太郎宗季、師季、法季、盛季、泰季を「奥州下國(しものくに)殿之代々」と記録しており、この頃の安藤氏宗家は下国を名字としていたことが分かる。従来は法季の子の代に盛季の系統の下国家、鹿季の系統の上国家とに分裂したと考えられてきたが、近年、鎌倉末期の蝦夷大乱における一族争いで前蝦夷管領安藤又太郎季長と後任蝦夷管領安藤五郎三郎季久の2派に分裂した時点に遡るとする見解が出されているが、詳細は不明である。
1325年10月18日(正中2年9月11日)と1330年6月30日(元徳2年6月14日)の二度にわたり、父宗季から所領を譲られた書状が残っており、その史料(「新渡戸文書」)によると最初に陸奥国鼻和郡絹家島、尻引郷、行野辺郷、蝦夷の沙汰、糠部郡宇曾利郷、中浜御牧、湊以下の地頭御代官職を、次に津軽西浜を相続している。
1333年(元弘3年)、名越時如、安達高景等が、新田義貞等により陥落した鎌倉から津軽に落ち延びてくると、大光寺城に籠城し大光寺合戦が起こった。このとき、高季は朝廷方として南部師行等と共に参戦しており、翌1334年4月16日(建武元年3月12日)津軽平賀郡の領知を北畠顕家国宣により認められ、更に1335年11月15日(建武2年10月29日)には、正中2年に父から相続した所領の地頭代職を顕家に安堵された。
1336年(建武3年)、北朝方の斯波家長により弟の五郎次郎家季が津軽合戦奉行になり、南朝方の南部氏を根城に攻撃。1338年(建武4年/延元2年)には、奥州総大将石塔義房により弟に替わり高季が奉行となった。
このころ、高季は足利尊氏の執事高師直の偏諱を受け、名を師季と改めたと伝えられているが、1341年(暦応4年/興国2年)には南部政長の勧誘に応じ、一時南朝方となったとの記録もある。南北両朝の間を立ち回り、本領の維持拡大に努めた様子が伺われる。
[編集] 参考文献
- 青森県市浦村編 『中世十三湊の世界』 新人物往来社、2004年、ISBN 4404032218
- 小口雅史編 『津軽安藤氏と北方世界』 河出書房新社、1995年、ISBN 4309222706
- 小口雅史ほか 『新版県史 青森県の歴史』 山川出版社、2000年、ISBN 4634320207
- 海保嶺夫 『エゾの歴史』 講談社、1996年、ISBN 4062580691
- 国立歴史民俗博物館編 『中世都市十三湊と安藤氏』 新人物往来社、1994年、ISBN 4404021518
- 渋谷鉄五郎 『秋田「安東氏」研究ノート』 無明舎出版、1988年
- 関口明ほか 『新版県史 北海道の歴史』 山川出版社、2000年、ISBN 463432010X
- 村井章介・斉藤利男・小口雅史編 『北の環日本海世界』 山川出版社、2002年、ISBN 4634605309
- 森山嘉蔵 『安東氏―下国家400年ものがたり』 無明舎出版、2006年
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