宋銭
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宋銭(そうせん)とは、中国・北宋代に鋳造された貨幣である銅銭のことである。また、宋代には鉄銭も鋳造された(辺境部である四川・陝西において、遼・西夏への銅の流出を防止するために、銅銭の所有・使用一切を禁じられて代わりに鉄銭が強制的に流通させられたため)が、一般的には、圧倒的に多い銅銭のことを指して宋銭と呼んでいる。
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[編集] 概要
建国当初の宋通元宝にはじまり、歴代の改元のたびに、その年号をつけた新銭を鋳造したため、太平通宝・淳化元宝・至道元宝・咸平元宝・景徳元宝・祥符元宝といった銅銭が見られる。
銅山の採掘と銅銭の鋳造のは国家の経営により、鋳銭監・鋳銭院という役所で行われた。
当初は、1個が1文(または1銭)の等価価値を持った通貨であり、これを小平銭(小銭)と称した。しかし、宋朝の財政がインフレ状態に陥り逼迫してくると、当5銭(5文銭)や当10銭(10文銭)という貨幣も鋳造されるようになった。主に流通したのは、小平銭と当2銭(または折2銭)であった。銭の単位は、1,000個で貫・緡または千と呼ぶ。また96個の1文銭を銭通しに通してまとめても100文として通用し、通し100文と呼ぶ。さらに通し100文を10個、つまり960文を銭通しに通してまとめても1貫(通し一貫)として通用した。
この通し100文は約360gの重さがあり、当時の一般的な寿司と同じ重量であった。このため、その寿司は景気をつけて貫という単位で数えたとされる。守貞漫稿(1853)によると文政年間(1818-1830)に、その鮨を江戸両国の華屋与兵衛が、より食べやすくするため小分け(40g×9個)にして出し、支持を得た。その後、小分けにした分量の寿司(40g)が1貫と改められ確定した。このことから現代の握り寿司半貫(1個)は平均して20gであるため2個で1貫と計数するようになった。つまり寿司の数え方(2個1貫)は元々宋銭通し100文の重量から派生したと考えられる事が多い。
建国当初の鋳造高は、年間70,000貫ほどであったが、次第に増鋳されて行き、神宗朝(1067年 - 1085年)には、6,000,000貫に達した。
[編集] 流通状況
宋銭は、金や西夏、日本、東南アジア諸国でも通用され、遠くは、ペルシアやアフリカ方面にも及び、ほぼ全アジアで流通したため、当時の経済状況に多大な影響を及ぼした。これは当時の中国王朝の政治力を物語るが、一方では唐の時代には既に経済規模に対して銅銭発行量が追いついていなかったといわれる中での更なる銅銭流出は、結果的には「銭荒」と呼ばれる銅銭不足の状態を恒常化させて中国経済を混乱に陥れた。
[編集] 日本での流通
日本で宋銭が本格的に流通したのは12世紀後半からといわれている。特に平清盛は宋との貿易に熱心で、以降大量に宋銭が輸入される。ところが、平家と後白河法皇の確執が深まった治承3年(1179年)、宋銭による資金力が平家を台頭させたと考える法皇の意を受けた松殿基房や九条兼実が「宋銭は(日本の)朝廷で発行した貨幣ではなく、私鋳銭(贋金)と同じである」として、宋銭流通を禁ずるように主張したものの、逆に清盛や高倉天皇、土御門通親らがむしろ現状を受け入れて流通を公認すべきであると唱えて対立した。平家滅亡後の文治3年(1187年)、三河守源範頼(源頼朝の弟であり、実態は頼朝の提案に等しい)の意見と言う形で摂政となった九条兼実が流通停止を命令、建久4年(1197年)には改めて「宋銭停止令」が出された。だが、鎌倉時代に入ってその流通はますます加速して、嘉禄2年(1226年)に鎌倉幕府が、その4年後には朝廷が旧来の政策を改めてその使用を認めた。仁治3年(1242年)西園寺公経が宋に派遣した貿易船は10万貫の銭貨を持ち帰ったと記録に残っている。13世紀に入ると、絹・布が持っていた貨幣価値を銭貨が駆逐する。次第に年貢も銭貨で納められるようになる。