宮中某重大事件
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宮中某重大事件(きゅうちゅうぼうじゅうだいじけん)とは、1921年に元老・山県有朋が、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の妃に内定していた良子女王(後の香淳皇后)の家系に色盲の遺伝を持った家系であるとして、女王及び同宮家に婚約辞退を迫った事件。
当時軍部と政界に隠然たる勢力を持っていた山県の皇室への干渉は、宮中、政府、世間を巻き込んだ騒動になった。1920年6月18日に宮内大臣波多野敬直が更迭され、元満鉄総裁の中村雄次郎がこれに代わって色覚異常の真偽を確かめることになる。
当初は久邇宮家も辞退やむなしの動きを見せたが、当時病気療養中であった大正天皇に代わって天皇家の家長のような存在であった貞明皇后や、良子女王の父・久邇宮邦彦王、元老の松方正義や西園寺公望は婚約の破棄に反対を表明。また頭山満など国粋主義の人間が同調したり、「北一輝等が山県を暗殺するべく刺客団を編成したなど」の流言が広まった。最終的には、当の裕仁親王本人の意向で婚約破棄は撤回、1921年2月10日、政府は「婚約は破棄されることはなくいずれ御成婚」発表した。この事件で山県の権威は大きく失墜し、一度は元老と爵位返上の意向も伝えられた慰留された。しかし翌年山県は失意のうちに死去した。
[編集] 問題の背景
良子女王の母、邦彦王妃俔子は、旧薩摩藩主で公爵の島津忠義の娘であったことから、「旧長州藩出身の山県は皇室に薩摩の血が入るのを嫌っているのではないか」との憶測が主流を占めていた。
ただしこの問題の発端は、同じ元老である西園寺が、当時注目されていた優生学の観点から、皇室の遺伝に障害が生じる可能性を山県に相談した事にあるといわれている。更に公家出身で幕末の宮廷の内部事情に詳しい西園寺は、久邇宮家の祖である久邇宮朝彦親王 (旧中川宮) が八月十八日の政変などで政治的事件への干渉した事などに不快感をもっていたため、この婚儀によって久邇宮家の政治干渉が再現される可能性を危惧していたともいわれる。
しかしこのような事情が世間に伝わることはなく、かえって「長州対薩摩」の藩閥抗争であるかのように見られた側面があり、これを千載一遇の機会として反山県がその追い落としを計るという構図になった。
また山県とは一貫して協調した姿勢をとっていた原敬首相は、この事件でも婚約破棄に関して明確な反対を示しておらず、後の皇太子訪欧における対応とあいまって、国粋主義者から「君側の奸」とみなされるようになる。これが一部の過激派から暗殺の対象として狙われるようになり、原暗殺の遠因となった。
[編集] 参考文献
- 大野 芳『宮中某重大事件』(講談社、1993年) ISBN 4062064685