小林照幸
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小林 照幸(こばやし てるゆき、1968年(昭和43年)4月5日 - )は、長野県長野高等学校、長野県長野市出身のノンフィクション作家。信州大学経済学部卒。明治薬科大学非常勤講師。
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[編集] 略歴
- 1968年(昭和43年) 誕生
- 1992年(平成4年)2月 明治薬科大学在学中、奄美・沖縄に生息する世界的な猛毒蛇「ハブ」の血清造りに心血を注いだ医学者・沢井芳男(東京大学教授 日本蛇族学術研究所理事長などを歴任)を描いた『毒蛇(どくへび)』(TBSブリタニカ、文春文庫の『完本 毒蛇』に収録)で第一回開高健賞奨励賞を受賞した(25か国776作品の一席)。
- 1996年(平成8年)10月 大相撲・二子山部屋の後援会機関紙『二子山部屋ファミリーニュース』の編集人も務めた(2001年(平成13年)5月場所まで)
- 1998年(平成10年)4月 信州大学経済学部経済システム法学科の3年次に社会人編入学(2000年(平成12年)3月卒業)
- 1999年(平成11年)4月 『朱鷺(トキ)の遺言』(中央公論新社、中公文庫)で、第三十回大宅壮一ノンフィクション賞を同賞史上最年少で受賞(当時)
- 2006年(平成18年)4月 明治薬科大学の非常勤講師(生薬学担当)
[編集] 主な著書
- 『毒蛇』『続 毒蛇』(ともにTBSブリタニカ) 『完本 毒蛇』(文春文庫)
- 『フィラリア 難病根絶に賭けた人間の記録』(TBSブリタニカ)
- 『朱鷺の遺言』『神を描いた男・田中一村』(いずれも中公文庫)
- 『闘牛の島』(新潮社)
- 『死の貝』(文藝春秋)
- 『大相撲支度部屋 床山の見た横綱たち』(新潮文庫)
- 『害虫殲滅工場 ミバエ根絶に勝利した沖縄の奇蹟』(中央公論新社)
- 『検疫官 ウイルスを水際で食い止める女医の物語』(角川書店)
- 『政治家やめます。 ある自民党代議士の十年間』『21世紀のひめゆり』『海人 UMINCHU』『ドリームボックス 殺されてゆくペットたち』(いずれも毎日新聞社)
- 『琉球弧(うるま)に生きるうるわしき人たち』『全盲の弁護士 竹下義樹』(いずれも岩波書店)
- 『熟年性革命報告』『熟年恋愛講座 高齢社会の性を考える』『熟年恋愛革命 恋こそ最高の健康法』『海洋危険生物 沖縄の浜辺から』(いずれも文春新書)
など。 共著には、柳家小さんの孫・柳家花緑との『僕が落語を変える。』(新潮社)がある。
[編集] 主なテレビ出演歴
TBS(東京放送)系『サンデーモーニング』(1999年5月から2000年12月まで月に1、2回コメンテーターとして出演)
SBC(信越放送)『ニュースウィークリー』(1999年4月から2006年3月まで月に1、2回コメンテーターとして出演)
[編集] 長野高校時代のエピソード
長野高校3学年時に在学中の1986年(昭和61年)、学園祭の『金鵄祭』で当時現役で活躍していたアントニオ猪木氏の講演会を企画、交渉し、高校生対象全国初の講演会を同年7月に実現させた(演題『苦しみの中からたちあがれ』)。 なお、この講演会についての詳細は『プロレススキャンダル事件史 いま明かされる真相』(宝島社文庫)のコラム「大宅壮一ノンフィクション賞作家の"超極私的"事件簿 1986年7月10日…僕たちの高校に「猪木ボンバイエ」が鳴り響いた!」に記されている。 2学年時より文芸班に所属。大宅賞を受賞した『朱鷺の遺言』の中央公論新社における担当編集者・酒井孝博氏とは、長野高校時代の同窓生(同学年でクラス違い)であり、文芸班仲間でもあった。
[編集] 明治薬科大学でのエピソード
2000年2月に刊行された『完本 毒蛇』の「文庫本のためのあとがき」からの抜粋。
《(前略)人生、と言い切るには、三十一歳の私にとっては大袈裟かも知れないが、現在の私自身を顧みて「人生を決めた人物は誰か」と問われたれ場、やはり「沢井芳男先生」になる。 そして私にとってもう一つ、人生を決めたものがある。それは一枚の写真である。 それは、ハブ咬症患者の壊死の状態を撮影したものだった。 沢井先生、そして、この壊死の写真との出会いによって私はノンフィクションの世界に進んだのだから、人生はまったくわからない。自然が豊かな信州に生まれた私は、山や川にごく近い環境で育ったため、幼い頃から自然と親しみ、身のまわりの生き物に関心を持った。 (中略) 図鑑に親しんだことで関心は世界の動植物、自然にも広がっていった。蛇の世界への関心も強かった。なんと言っても、身近ではシマヘビやアオダイショウといった無毒蛇しか見たことがない。ところが世界にはコブラやガラガラヘビ、アマガサヘビと、体も大きく毒性も強烈な蛇がいるという。そして、日本の奄美・沖縄に「ハブ」という、猛毒を持ち、二メートルを超える攻撃的な毒蛇が存在することも知った。 小学校一年生のとき、長野駅前のデパートで開かれた「蛇展」で初めて生きたハブやコブラを目にした。私はガラス越しにそれらを食い入るように見た。そして、圧倒された。その圧倒は、(これに咬まれたら死んじゃうんだな)と図鑑で知った、強力な毒性への怖れのためだった。 そのとき、『世界のヘビ』と題する案内パンフレットを買ってもらった。パンフレットには「毒蛇の被害 世界に置ける毒蛇咬症の概要」というレポートが載っていた。執筆者は「東大教授・沢井芳男」。それが私と沢井芳男との出会いだった。 同時に私の中でひとつの疑問が膨らんでいった。図鑑やパンフレットには「ハブをはじめ出血性の毒を持つ蛇に咬まれたら、死亡を免れても、咬まれた部位が広範囲に腐って障害が残ることも少なくない」といった趣旨のことが書かれている。 死ぬということは、小学一年生でもなんとなくわかる。しかし、手足が腐るとはいったいどういうことなのか。パンフレットには、写真の添付もなくどうにも理解できなかった。 小学二年生のときだった。毎週日曜日に放映されていた日本テレビ系の『すばらしい世界旅行』で、南米に棲息する世界四大毒蛇の一つで強い出血毒を持つ「ブッシュマスター」が特集された。その番組の中で私の疑問は氷解した。番組内で出血毒の説明があり、手足が広範囲に腐った「壊死」の写真が何枚も映し出されたのだった。 中でも左足のすねが腐りきり、巨大に腫れ上がった一枚は強烈だった。私はその夜、怖さのあまり眠れなかった。しかし、その怖さが時間の経過と共に「怖いもの見たさ」に変わった。 小学生の頃は、普段は新聞を見てもテレビ欄やスポーツ欄しか見なかった。だが、自分が社会面を開くときに限って「那覇市で毒蛇咬症の国際セミナー開催」とか「毒蛇に咬まれたときの応急処置方法」など、不思議と毒蛇に関する記事に多く出会った。 そのときには、必ずと言っていいほど「沢井芳男」の名前が登場していた。子供心にも、(沢井先生はとても偉い人。いつかはお会いしてみたいな)と自然と思うようになった。 もっとも、正直に言って、中学・高校時代は、私の中で「沢井芳男」と「毒蛇」に対する関心は薄れていた。 しかし、国立大学医学部を目指して二浪目の受験を終えた一九八九年三月の春休み、私の中で「沢井芳男」と「毒蛇」に関する関心が再燃する。当時、東京に住んでいた私は日帰り旅行をしよう、と思い立った。本屋でガイドブックを立ち読みし、群馬県新田郡にある「日本蛇族学術研究所(通称ジャパンスネークセンター)」に出かけた。浅草駅から東武電車で一時間半足らずの近さもあったが、心のどこかで童心に立ち返りたいと思っていたのかもしれない。本書でも記したとおり、この研究所は一般の人に世界の蛇を見学させる施設も備えている。研究所の中にある施設案内の看板に「日本蛇族学術研究所所長・沢井芳男」の名前をまず見つけた。 そして、同研究所の資料館で、私は小学二年生のときにテレビで見て衝撃を受けたものとまったく同じもの、左足のすねが広範囲に腐った写真を見たのである。パネル大に拡大された、この写真の説明には「ハブ咬症による壊死 於・奄美大島」と書かれてあった。テレビで私が見た壊死の写真は、出血毒を紹介する一資料として、ブッシュマスターではなく、ハブの咬症患者のものが使われていたのだ。 瞬間、「そうだ、俺にはこれがあったんだ」と思った。 自分自身の中に何か突きつけられるものを感じた。私が医学部を目指したのは中学時代の級友が喘息で亡くなったのが動機だった。しかし、壊死の写真との再会で、毒蛇に咬まれて苦しんでいる人々を救いたい、そのために医学部に行こう、と考えた。 そこで、同研究所の研究員の方をつかまえて色々とお話を伺った。ところが、医学部では毒蛇咬症や蛇毒については教えていないという。死亡者が他の疾病に比べて極端に少ないため、というのが理由だった。だが、と断りのあとでこう教えられた。 「薬学部では生化学の研究材料として蛇毒が使われている。血清の改良もその延長にある。蛇毒を研究したければ、薬科大学に行くのがいい」 その時点で私は、沢井芳男の弟子になりたい、と志を立てた。研究所から沢井先生に関する資料をいくつか頂戴した。私が小学一年生のときに見た蛇展は同研究所の主催だったということもこのとき知った。 東京に戻った私は、沢井芳男と縁のある薬科大学を探した。そして、沢井先生がかつて一九五○年代半ばから数年間、明治薬科大学で非常勤講師をされていたのを知った。 一九九○年四月、私は明治薬科大学に入学した。 とうの昔に大学を去っているとはいえ、私は沢井先生の教え子が教壇に立っているものとひそかに期待していた。しかし、沢井先生の意志を継ぐ人はおろか、沢井先生の存在を知っている人もいなかった。非常勤講師として勤務した人はそれこそ無数にいるわけで、大学関係者が沢井芳男を知らなくても何も不思議なことではないが、私にとっては入学してからわかったこととはいえ、これは衝撃だった。 途方に暮れた私は、沢井先生に手紙を送ることにした。便箋に十枚近くに、弟子になりたい旨を綴り、面会を申し込んだ。 私にとっては長年思い続けた雲の上の人である。一介の学生を相手にしてくれるのだろうか、との不安も強かったが、私の不安は杞憂に終わった。手紙を送って間もなく、沢井先生は丸一日、群馬の研究所で私のために時間を空けてくれた。沢井先生は丸顔に白髪の優しく気さくな人だった。 (中略) 以後、図々しくも月に二度ほど、沢井先生の研究室を訪ねた。地球規模で毒蛇咬症を考える沢井先生の話を伺うたびに、「沢井先生こそ真の医者だ」と感激する一方、「どうして、これだけの業績を上げ、真摯に働いてきた先生のことが世間一般の人々に知られていないのだろうか」と徐々に考えるようになった。当初は、沢井先生の半生を描いたものがあるだろう、と思っていたが、まったくない。また、何か沢井先生のお手伝いをしたいと思っても、薬科大学に入ったばかりの私の乏しい知識では研究の手伝いはできない。 (それならば自分が沢井先生のこれまでの業績をまとめてみよう。ある程度の量になったら、ワープロで打ち直して、コピーを作り簡単な冊子にして身内だけでもいいから読んでもらおう。青春の名刺代わりにしようじゃないか) そして私は時系列のレポート形式で沢井先生の半生をまとめ始めたのだった。 (中略) 一九九○年の暮れ、私は第一回開高健賞のことを知った。『オーパ!』『パニック』などの開高氏の作品は中学時代から好きだった。テレビで拝見した氏の人柄に「開高さん」と気軽に呼びたくなる親しみもあった。私はその開高氏の名を冠した賞の「ジャンルを問わない」「世界の人々の交流」「人間にスポットを」「ユーモアと冒険心に富んだ作品を」といった募集要項にちりばめられた言葉に心を動かされた。これはまさに沢井先生のことを言っているんじゃないか、応募してみよう、と思った。 (中略) しかし、賞が欲しい、という色気はなかった。選考委員にC・W・ニコル氏、奥本大三郎氏、椎名誠氏など自然科学に造詣が深い方々がいたことが大きかった。私は、選考委員は応募された全部の原稿に目を通すものだと思っていた。だから、私のつたない原稿を見た選考委員の中の誰かが、沢井先生とハブ咬症に興味を持ち、直接に沢井先生を取材するきっかけにでもなれば、と期待したのである。 (中略) 私自身は一九九一年十月末、ようやくまとまった作品を開高健賞に応募した。原稿用紙四百四十六枚。「ある咬症伝」と言うタイトルをつけた。翌年の一九九ニ年二月十一日が選考会だった。正賞はなく、新たに設けられた奨励賞の一席を幸いにも受賞した。最終選考に残った報を伝えられたのが、その一週間前。その一週間は緊張のしっぱなしだった。翌日、記者発表があり、その席で選考委員の谷沢永一氏、向井敏氏、大宅映子氏にお目にかかり、受賞の喜びと共に、これからの責任の重さを実感した。処女作『ある咬症伝』は『毒蛇』と名を改めて、TBSブリタニカより同年五月に単行本として発刊された。 (中略) 処女作『毒蛇』の発刊後、私は明治薬科大学を中退して、著作活動に入った。取材対象者にご高齢の方が多く、一刻も早く話を伺い、風化を防ぎたいと思ったからである。その後、私が天美や沖縄を舞台とした作品を多く書いたのは『毒蛇』空生まれた縁である。(後略)》
2006年より明治薬科大学の非常勤講師を務めるようになったが、担当する授業内容は主にアジア・南太平洋における毒蛇、クラゲ、オコゼなどの有毒生物の被害に対しての応急処置、民間療法(伝統医療 中国の中医やインドのアユル・ヴェーダ、インドネシアのドゥクンなど)を生薬の面からまず解説し(ハブやコブラによる患者の壊死の写真、沖縄のハブクラゲによる患者の被害写真なども実際に授業の中で映写)、血清・ワクチンといった科学療法との相関関係について講義している。
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